人の身長よりはるかに大きい大仏殿の基壇石垣。南北約260メートル、東西210メートルの規模と推定される。右手に見えている建物は京都国立博物館「平成知新館」で2014年9月にオープン。


 

秀吉の大仏造立

 

天正14年(1586)、「兼見卿日記」によれば、「東福寺に至り御出、この近所に大仏御建立あるべし」と秀吉が言ったことになっている。これが「東山大仏」に関わる史料の初見とされている。

秀吉は天正14年(1586)の段階で大阪城と聚楽第という二つの城郭の築城と共に、新大仏の建立という大規模な工事を並行して始めることを決意したことになる。

 

「東山大仏」の造立には徳川家康も参加している。

天正17年(15898月に「京都東山大仏の柱を富士山より出だすべきよし、秀吉公より仰せにより家康公の衆これを引く。」(当代記)。

 天正16年(1588)に本格化した大仏普請は、最初にその基壇(礎)を5月に築くことから始められた。この時に築かれた石垣というのが、今に残る「京都国立博物館」から「豊国神社」に続く石垣と考えられる。

 

文禄4年(1595)、東大寺の大仏より大きい(座高約19メートル)大仏が三十三間堂の北(現在の京都国立博物館から豊国神社の間)に完成。(ちなみに東大寺の大仏は座高約15メートル)。

巨大な大仏なので、先に大仏を造立し、後から大仏殿を建てた。

宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には以下の文が見える。

「この大仏は背丈が巨大で寺院が完成しても後から内部に収めるわけにはいかなかったので、まず中央に大仏を造り、その周囲に寺院を建築してゆくことになった。」

 

文禄5年(15967月晦日、醍醐寺三宝院門跡の義演のもとへ「大仏供養」の日程が決まったとの一報が届いた。また、翌閏75日には、その日程が「来る818日」であるとの「内内の触状」も到来している(義演准后日記)。ところが、それから8日後、閏713日の未明に大地震が京都を襲う。

13日、はれ、今夜丑の刻、大地震、禁中御車寄(くるまよせ)その廊転倒す。南庭上に御座を敷き、主上(後陽成天皇)行幸す。京都の在家転倒す。死人その数を知らず、鳥部野の煙絶えず。」(義演准后日記)。

「日本六十豫洲の山木」を集めて建てられた大仏殿がびくともしなかったのはさすがと言えるが、「大仏は大破、左の御手崩れ落ちおわんぬ、御胸崩れ、そのほかところどころにヒビこれあり。」(義演准后日記)。

 

文禄5年(1596)、閏713日に発生した慶長伏見大地震により方広寺大仏は倒壊した。この時秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝えられる。大仏の祟りか、その2年後、慶長3818日に秀吉は亡くなった。2年前の大仏開眼供養の予定日と同じ日に亡くなったことは、当時の人々に驚きの目で迎えられただろう。

 

イエズス会宣教師の書簡にも同様の記述がある。

「太閤様は死去の前にその姿を見て非常に憤り、それを粉々になるまで砕いてしまうように命じてこう言った。もし、地震の時に自分自身も助けることが出来なかったのなら、他の人々の役に立てるはずがなかった、と」。

 

この話には続きがある。

「当代記」にはこの続きに「善光寺の如来を遷し給うべし」とあり、また「鹿苑日録」でも「善光寺如来三夜夢に入り、大仏殿にいたらんと欲す」と秀吉の夢枕に三晩善光寺如来が現れたことになっている。「牛にひかれて善光寺参り」で有名な信濃国善光寺の御本尊に白羽の矢が立っ

 

東山大仏の敷地は三十三間堂の北一帯で、今の京都国立博物館もすっぽり入る。


大坂の陣のきっかけを作った有名な方広寺の梵鐘。左上に見やすいように細工がしてある。


東京大仏 1  (写真提供: 深谷 洋)


 

 

 

たのだ。もっとも、当時、善光寺如来は甲斐国に移されていた。

いずれにしろ、約19メートルの大仏が一尺二寸(40センチメートル弱)の仏像に代わっても、秀吉は意に介さなかったことになる。

 

国内の史料には、権力者「秀吉」に憚ってか、このあたりの理由について書かれたものがほとんどない。というか、納得のいく理由が書かれたものがない。

イエズス会宣教師が本国に宛てて書いた「イエズス会日本報告集(1589)」に東山大仏建立に関する興味深い分析があるので紹介する。

秀吉が東山大仏を建立するのは「釈迦への崇敬からでも、その他いかなる偶像に対する崇敬からでもない」としたうえで、三つの目論見があったと記されている。

 

一つに「民衆の心をおのれのもとに惹きつけること」「日本の人民は釈迦に抱くその愛情ゆえに、東山大仏を大いに称賛しかつ歓迎するに違いない」。

二つに「自らの野望と悪政を隠ぺいすること」「自らが幾多の手練手管で蓄積してきたものは、これを自分自身の懐に入れようとするのではなく、これらの建造物に費やそうとしているのだという事を周知徹底させようとした」。

三つに「日本の民衆からすべての武器を取り上げ、あらゆる農夫、職人、庶民がその刀剣と武器を提出するように命じ、その通りに実行に移した」事にあるという。三つめの目論見がいわゆる刀狩に当たるものであることは、言うまでもないだろう。

 

この後、慶長7年(1602)に方広寺大仏殿が炎上した時、それを目の当たりにした醍醐寺三宝院門跡の義演がその日記「義演准后日記」に「日本六十豫洲の山木がただ三時(6時間)のあいだ」で消滅してしまったと書き残している。

 

ついでにこの時期、奈良の東大寺大仏がどうなっていたか調べてみた。

永禄10年(15671010日、東大寺大仏殿は猛火に包まれた。この時、いわゆる三好三人衆と松永久秀の間に起こった戦闘で大仏殿は焼失した。本尊の大仏がどうなったかというと、「釈迦像も湯にならせたまいおわんぬ」(多院聞日記)。東大寺大仏は金属でできていたから、溶けてしまったというのだ。5年後には若干の修復が加えられたようだが、本格的な修復がなされないまま百数十年が経過することになる。この時期、秀吉には奈良の大仏を修復する選択肢もあったが、そうしなかった。奈良の大仏・大仏殿が修復されるのは、宝永6年(1709)まで待たねばならない。

 

江戸時代の三大大仏

 

江戸時代の三大大仏とは「奈良東大寺大仏」「鎌倉高徳院大仏」「京都方広寺大仏」という事になっている。一度目は倒れ、二度目は燃えた方広寺大仏だが、2代目(16121662)、3代目(16621798)、4代目(18431973)と、確かに京都に大仏は存在した。ただし、4代目の方広寺大仏は規模も小さく、江戸時代の三大大仏と言った場合、2代目と3代目がそれにあたる。

 

現在、日本の三大大仏はどれだろう?「奈良大仏」「鎌倉大仏」は当選確実だが、あと一つが諸説あるようだ。いろいろ候補はあるだろうが、3番目の大仏は板橋区にある「東京大仏」でどうだろう。「東京大仏」の写真も用意するので、ご覧ください。


 

京都国立博物館から豊国神社に続く石垣。420年たっても石垣はびくともしない。


「国家安康」「君臣豊楽」とはっきり読める。家康の言いがかりだったという説と、根拠があるという説と二つある。

 

東京大仏 2 (写真提供: 深谷 洋)