修学院離宮「隣雲亭」から「浴龍池」を望む。

 

至高の庭「修学院離宮」

 

「修学院離宮」は、「桂離宮」に遅れること30余年、明暦元年(1655)から明暦2年(1656)にかけて、後水尾(ごみずのお)上皇によって造営工事が起こされ、万治2年(1659)頃に完成した山荘である。
幕府との間に緊張が続いた時代に、短期間にこれほど大規模な山荘を造営しえたことは一つの驚異でもある。(以上、修学院離宮パンフより)

 

後水尾天皇が譲位し、上皇となって仙洞御所に移って30年を経た万治2年(1659)かねてより懸案とされていた離宮造営の一応の工事がなり、完成の「おふるまい」が催された。
後水尾上皇は、前年の万治元年にはお忍びで、寛文3年(1663)には桂離宮新御殿の完成を待って2度に渡り「桂離宮」に行幸されている。

小堀遠州の作である仙洞御所の庭園や、八条宮智仁(としひと)親王・智忠(としただ)親王親子の作になる「桂離宮」をご覧になった上皇は、ご自身の好みを一木一草にまで反映させた気宇壮大な離宮の造営に意欲を持ち、これを急いだ。

 

洛北の圓通寺庭園は、後水尾上皇の山荘(幡枝御殿・はたえだごてん)の跡地であったと言われるが、なぜかこの地を捨て「修学院離宮」の造営に入っている。
この間の事情については、うかがい知る由もないが、幡枝御殿の場所については現在も論争が続いている。
後水尾上皇が幡枝御殿を使用したのは、慶安2年(1649)から明暦3年(1657)とされているので、山荘を幡枝から修学院に移したことは歴史的整合性がある。

 

修学院離宮の一応の完成とされる万治2年(1659)には、未だ浴龍池などの大規模な工事などは出来ておらず、離宮の全体が完成するのは少し後の時代になってからと考えられる。

 

徳川秀忠と後水尾天皇との確執は歴史的事実であろうと思われるが、家光の時代に入って幕府と朝廷との間に協調関係が生まれたかというと、何とも判断しかねる。
元和元年(1615)「禁中並公家諸法度」の第一条に「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とこれまで法令で縛られたことのない天皇の行動について規制がかけられ、天皇の権力と権威は損なわれた。
つまり、天皇は学問をしていればよいのであって、政治に口を挟むなという事が暗に示されている。「禁中並公家諸法度」は元和元年(1615)以降、江戸時代を通して天皇と公家を縛り続けることになる。

 

寛永11年(1634)徳川家光は三度目の上洛を果たす。表向きの理由は「紫衣事件」の後始末で、30万人の大軍を率いて京都に入ったことになっている。かなり誇張のある数字であると思われるが、いずれにしろ武力を持って朝廷を屈服させる意図があったことは明白だろう。
「天皇は学問をしていればよいのであって、まつりごと(政治)に口を出すな」という事だが、一方「アメ」も用意した。

 

 

 

 

荒廃した京都の復興である。特に家光は五重塔がお好きだったようで、伽藍の復興と併せて各地に「五重塔」を建てている。

 

東寺の五重塔(国宝)は、東寺のみならず京都のシンボルとなっている。高さ54.8メートルは木造塔として日本一。現在の塔は五代目で、寛永21年(1644)、徳川家光の寄進で建てられた。
仁和寺の五重塔(重要文化財)は高さ32.7メートル。寛永14年(1637)に徳川家光により再建された。寛永21年(1644)再建説もある。
ちなみに清水寺も徳川家光により再建されている。
江戸・関東では日光東照宮、寛永寺、浅草寺の五重塔も家光による。

 

徳川家光は寛永11年(1634)、後水尾上皇の仙洞御所に小堀遠州を遣わして、作庭させている。後に後水尾上皇御自ら庭園の大改造が行われている。たぶん気に入らなかったのだと思うが、仙洞御所南池東岸周辺には遠州好みが残っていると言われている。

桂離宮にも遠州好みと言われる燈籠や延べ段が残されているが、桂離宮を遠州が作庭したかと言われれば、否であろう。詳細は次回「究極の庭・桂離宮」で述べたい。

 

上皇の文化事業に家光と徳川幕府は莫大な資金援助をしたようで、「アメとムチ」の「アメ」は「カネ」のことだろう。うちの婆さんが良く言っていた「世の中、カネだよ、カネ」である。

幕府から「カネ」を引き出すときに活躍したのが家光の妹「和子(かずこ・まさこ)」で、後水尾天皇に元和6年(1620)嫁いでいる。大変苦労をされた姫君で、秀忠・家光と夫の不仲を何とかしようと心を砕いていたようだ。

 

修学院離宮は徳川幕府の莫大な資金援助があったればこそ出来た偉業であると書くと、身も蓋もないだろうか?後水尾上皇は有り余る才能を、「政治」ではなく「作庭」に向けて大成功を修めた天才である。

 

最後に蛇足ながら、浴龍池に佇んでの感想をひとつ。
後水尾上皇が「幡枝」から「修学院」に山荘を移した理由に、夕陽があると思う。阿弥陀信仰によれば、西方浄土から阿弥陀如来はお迎えに来ると言う。若いころは朝日にあこがれた天皇も、晩年になって夕陽を見ながら阿弥陀様の来迎を待つ気持ちになったとしても不思議ではない。

 

ショパンの「別れの曲」を聞き、沈みゆく夕陽を眺めながら安らかに死んでいきたいと思うのは私だけではないだろう。実際には築40年の古びたアパートの一室で、西日を浴びながら糞尿にまみれ、工事現場の騒音を聞きながら死んでいくにしても…

 

<参考資料>
修学院離宮(監修―宮内庁京都事務所)
日本の10大庭園(重森千靑)祥伝社新書2013年
二代将軍・徳川秀忠(河合敦)幻冬舎新書2011年

 


こけら葺きの下離宮御幸門だが、一般の見学者は門左側の扉から入っていくことになる。

 

寿月観は文政7年(1824)に改造されて今日に伝えられる。扁額は後水尾上皇の宸筆。奥の襖墨絵には「虎渓三笑」が描かれている。

 

本日のガイドさんは女性で、堅苦しい歴史の話は軽めにして、見どころを簡潔にガイドしてくれた。

 

最初に目に飛び込んで来る燈籠がこれである。最初から吃驚させる。鰐口燈籠ともいう。

 

襖絵には「虎渓三笑(こけいさんしょう)」が描かれている。初期の後楽園には「コケイノツツミ」があったが、当時人気の題材だったのだろう。

 

中離宮の中門。

この門は開けてくれたように思う。

 


<お知らせ>

サイトの容量が限界に達しましたので、「至高の庭」はこれで終了します。

続きは「湖水通信」の「日本庭園」にアップする予定です。

 

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