図南亭(となんてい)から東庭を見る。



雪舟の庭

 

芬陀院(ふんだいん)は臨済宗東福寺派の大本山、東福寺の塔頭寺院の一つで、雪舟作の名庭を伝えることから「雪舟寺」の名で親しまれる。

創建は鎌倉後期、後醍醐天皇の元亨(げんこう)年間(132124)に遡る。時の関白一条内経(うちつね)公(12911325)が、東福寺開山聖一(しょういち)国師の法孫にあたる定山祖禅和尚を開山として創建。以来、一条家の菩提寺として今日に至る。

 

雪舟は少年時代、禅僧になるため備中宝福寺に入るが、修行をせず絵ばかりを書いていたため、住職が戒めのために本堂の柱に雪舟を縛り付けた。その夕方、住職は少し可哀想に思い本堂を覗くと、雪舟の足元で鼠が動いていた。それは生きた鼠ではなく、実は雪舟が涙で書いた鼠であった。それほど鼠はいきいきと描かれていたという。

 

のちに関白一条兼良公はそれを思い出し、雪舟に亀を描くように所望した。ところが雪舟はいっこうに筆をとろうとはしなかったが、ある日、庭に出て砂を整え石を動かし始めた。するとしだいに亀の形になり、数日後には立派な石組みの亀ができあがったという。画家雪舟は石組みで亀を描いたのだった。

その日の夜、庭先で異様な音がするので、鶴栖和尚が障子の隙間から庭を覗くと、その石組みの亀が手足を動かし這っている。和尚が処置するように依頼すると、雪舟は亀の甲羅に大きな石を載せた。すると亀は動かなくなったと言う。

(芬陀院リーフレットより)

 

雪舟は寛正(かんしょう)元年(1460)以前に東福寺を度々訪れていたことが知られ、その時に庭園が造られたのではないかと推察される(確定的な史料はない)。しかし、傍証となる史料として「蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)」がある。

 

芬陀院庭園の受付に向か動線もまた味がある。


最初のうちはこれが亀石組みとは気が付かない。


しばらくして亀頭石が見えてくる。


亀の前足が見え……


亀の甲羅に乗った蓬莱山が見えてくる。


東庭の亀石組み。左が頭で右が尻尾だ。



回り込んでみると左の二石と見えた石組は三石。これだけで鶴首石、羽石、鶴尾石と見立てることが出来る。


右の三石。伸ばした首と羽石に小さな尾が見える気がする。

七五三の全体として鶴をイメージすることも、鶴の三態を想像することも出来る。見立ては自由である。


茶室。

住職と奥方二人だけで、きれいさっぱりと気持ちよい。


 

 

 

寛正元年(1460)に、相国寺蔭涼軒の作庭にあたって、室町8代将軍足利義政の命で芬陀院内にあった庭木、庭石を取り寄せていたことが「蔭涼軒日録」の寛正元年(1460)閏916,17日の条に記載されている。

(佛教大学四条センター「庭園の美」講座資料…資料作成「重森千靑」より)

 

 

雪舟(1420生、1506没)

 

雪舟の手掛けた庭園は関東にはないので、東京の庭園ガイドの皆さんにはなじみが薄いと思われる。雪舟の庭園は京都の他、島根県、広島県、山口県、福岡県、大分県などにある。その多くを実地に測量したのが重森三玲であり、その経験を活かして昭和14年に芬陀院庭園は復元された。外から石を持ち込まないという制約のもとに復元作庭されたため、重森三玲は「石が足りない」と漏らしたと伝わる。芬陀院庭園は「鶴亀蓬莱」の庭であり、特に亀石組みについては、雪舟のつもりになって作庭できたと重森三玲は語っている。

芬陀院のリーフレットに「雪舟は亀の甲羅に大きな石を載せた。すると亀は動かなくなった」とある。重森三玲もまたこの故事に倣って、庭園の片隅にあった大石を亀の甲羅に載せ、蓬莱山に見立てた。雪舟の庭の見どころはこの亀石組みだろう。

 

雪舟の庭は「南庭」とも呼ばれるが、東側にもう一つ庭園が造られた。これは「東庭」と呼ばれ、室町時代の古典的な「鶴亀蓬莱」庭園を下敷きにしながらも、重森三玲は自由な発想で作庭している。石が不足して「南庭」では思うように鶴石組みが実現できなかったこともあり、「東庭」では特に鶴石組みにこだわったと思われる。

「東庭」の見どころは鶴石組みだろう。

  

雪舟の庭が最初に出迎えてくれる。白砂は海を表すのだろう。

 

こちらも鶴石組みには見えない。


亀頭石が分かれば、亀尾石はすぐ分かる。


亀の後ろ足が見え……


どこから見ても亀石組みだ。


東庭の鶴石組み。左から二石、五石、三石と見える。七五三石組の変形と言えるだろう。

 

中央の五石。左から鶴首石、羽石2、鶴尾石と見立てることが出来る。手前の伏石は鶴の背中を表すのだろう。


手水鉢と崩家形燈籠。

小さな庭だがほっとさせる雰囲気がある。

石の打ち方も一工夫されている。

 

手水鉢と崩家形燈籠のアップ。