京都御苑の梅

 

今年は梅の開花が遅れているのか、見事に咲いているのは紅梅一本だけだった。

そのうち雨が降り出したので、早々に京都御苑を後にした。

その代り何十年かぶりでトラツグミに出会え、写真に収めることが出来た。

「一期一会」とは野鳥との出会いに使える言葉かもしれないとふと思った。

 

トラツグミ(国民公園京都御苑の案内図より)

平家物語「鵺(ぬえ)」の章に、妖怪が毎夜現れ、天皇をおびえ苦しめたため、源三位頼政にその退治を命じる一節があります。

「頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。鳴く声鵺にぞ似たりける。おそろしなんどもおろかなり。(恐ろしいどころではない。大変恐ろしい。)」

鵺はトラツグミの別名であり、冬場深夜に不気味になくので妖怪の声にたとえられたようです。鳴き声で損した鳥?……でしょうか。


トラツグミの夜の鳴き声は口笛のように聞こえるが、正体が分からず、奈良・平安時代に鵺鳥と呼ばれていた。万葉集にも詠われている。

 

ひさかたの天の川原にぬえ鳥の うら泣きましつすべなきまでに(柿本人麻呂)

 

「うら泣き」の「うら」とは「裏」ではなく、「心」のことらしい。「うら悲しい」などと一緒で「心から」とか「心底」と訳すといいのだろうか?

 

よしゑやし直(ただ)ならずともぬえ鳥の うら泣き居りと告げむ子もがも(柿本人麻呂)

 

(現代訳)たとえ直接会えなくても、「心底泣いていますよ」と愛しい人に伝えてくれる子がいて欲しいな。

 

「鵺(ぬえ)のなく夜は恐ろしい」というキャッチコピーをご存じだろうか?確か角川映画の「悪霊島」のテレビCMだったと思う。

万葉の時代には「さみしい」「うら悲しい」鳴き声と認識されていたものが、平家物語の影響からか、平安後期からは「恐ろしい」に認識が変化する。鳴き声の正体が分かったのは江戸時代だというから、ずいぶんと長い間鳴き声の正体がつかめなかったものだ。

 

トラツグミに限らず、野鳥の研究が進んだのは昭和に入ってからだ。例えば「ブッポウソウ」という鳥は、鳴き声が「仏法僧」と聞こえるところから昔々名付けられたという。

「仏法僧」とは、仏教の三宝のことで、仏と、仏の説いた法、その教えを奉じ広める僧をいい、ありがたい鳴き声の鳥ということで、古くから霊鳥として尊崇の対象とされてきた。しかし、実際には「げっげっげっ」としか聞こえず、昭和10年(1935)に「ブッポウソウ」と鳴いているのがフクロウの一種である「コノハズク」と分かった。以降、名前は「ブッポウソウ」のままであるが、俗にこの鳥を「姿のブッポウソウ」、コノハズクを「声のブッポウソウ」と呼んで区別している。

 

今から45年前、東京は高尾山で初めて「姿のブッポウソウ」を見て、それ以来ブッポウソウにお目にかかっていない。高尾山は三ツ星がついてから銀座並の混雑で、霊験あらたかなブッポウソウは二度と高尾山に現れないだろう。このまま一生会えないと思ったときに「一期一会」を思い出し、ブッポウソウと同様に「トラツグミ」との出会いもまた「一期一会」かも知れないと、ふと思った次第である。





(蛇足)

「トラツグミ」から吉本ばななの「TUGUMI」を思い出した。鵺の話を知っていて「TUGUMI」を書いたのかと思ったわけだが、そんなはずないとも思う。

病弱な少女「つぐみ」が夏に帰省してきた従姉妹のまりあと町で遭遇する出来事を描く。1989年に第2回山本周五郎賞を受賞した。その後英語などに翻訳されて各国にも紹介されており、高い支持を得ている。

日本では平成時代初のミリオンセラーを記録した単行本となった。累計発行部数は167万部。1996年には大学入試センター試験の問題としても使われた。

しかし、私が読んだ限りでは文章にリアリティが感じられず、従って像を結ばず、退屈な小説に分類される。世代間の感覚の違いかもしれないが、これ以降小説を読まなくなった。そういう意味ではすごい小説だと思う。「吉本ばなな」はペンネームがすごいが、小説もすごい。

 

水戸藩 京都藩邸

 

京都御苑の蛤御門を出てすぐに京都ガーデンパレスがある。江戸時代このあたり一帯に水戸藩邸があったとは想像がつかない。元治元年(1864)禁門の変で蛤御門の周辺は激戦地となり、水戸藩邸も焼けてしまったからだ。

案内板にはこう書いてある。

 

此付近水戸藩邸跡

この付近、烏丸通下長者西入北側は、江戸時代に水戸藩邸があった処である。藩邸が置かれたのは古く、貞享3年(1686)の地図「旧藩邸上邸箇所」に記されている。明治の初め藩邸が廃止された時は、敷地1302坪(約4300㎡)の広さであった。

水戸藩は徳川家康の子・頼房を初代藩主とする御三家のひとつで、石高は三十三万石。二代藩主徳川光圀は「大日本史」編集の事業を始め、幕末まで継続された。編集の史料を集めるため、京都にも多数の係員が派遣され、この藩邸はその拠点となり、借用史料の筆写も藩邸で行われた。幕末には水戸藩は尊王攘夷と(尊王)佐幕とに藩論が分かれたが、ともに諸国志士の運動に大きな影響を与えた。


京都ガーデンパレス。ちょうど結婚式が行われていたようだ。


蛤御門。禁門の変での銃弾の跡があちらこちらに見られる。


閑院宮邸跡の池には、最近復元された中島がある。明らかに「亀島」。