東山の西行堂。ねねの道のはずれ「祇園閣」の近くにひっそり建っている。


西行

 

西行について語るとき、出家前の「武士の顔」と出家後の「僧侶の顔」と「歌人の顔」の三つを念頭に置かなければならない。

 

身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

 

(現代訳)俗世を捨てて出家した人のことを世間は身を捨てたというが、そうではなく身を救ったのだ。俗世を捨てずにあくせく働いている人のほうが、実は出世やお金のことばかり考えているので、大切な自分自身を捨てていることになるのだ。

 

佐藤義清(のりきよ・後の西行)は18歳の時、「成功(じょうごう)」によって兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられたと「長秋記」にある。「成功」とはつまり「金」による買官である。

「成功」によって身分を得た西行は次に有力者の家人(けにん)になる。有力者とは徳大寺左大臣実能(さねよし)だ。しかし、主家筋にあたる徳大寺家の人々に、西行は不信感を覚えていたという記述が「古今著聞集」にある。

出家後の話であるが「ある日都に帰ってきた西行は徳大寺左大臣実定(さねさだ)の屋敷に参上した。…(鳶を追っ払おうとしているのを見て)鳶がいるのがなぜ悪いのだろうと、西行は急に嫌気がさし、帰ってしまった。」「その次に西行は実定の実の弟の大納言実家(さねいえ)の館へ行き…想像していたような人物ではなく、欲張りみたいな感じがしたので不愉快になり、大納言にも会わずに帰った。」

 

出家後の僧侶の身でありながら、鳶ごときで勝手に帰ってしまうとは、よほど強情な人なのだろう。いわんや、若い武士の時代の佐藤義清は時として自分自身の激情に翻弄されたのではないだろうか?

 

少々脱線する。

初期の「後楽園」造園の責任者は「徳大寺左兵衛」という人物だ。徳大寺家に連なる人物とみなされているが、血筋は繋がっていないと思われる。徳大寺家の血筋に繋がる男子の名前には「実(さね)」か「公(きみ)」が使われるのが通例だからだ。おそらく「徳大寺」の家人の「左兵衛」という庭師と思われる。「徳大寺の家人」ということで言えば、西行と同等と言える。「後楽園」に「西行堂」が置かれたのは、徳大寺の家人が作庭に関わっていたことを知らしめるところに理由があったのかも知れない。

 

西行が何らかの理由で武士としてやっていくことに困難を感じていたのは最初の一首で分かる。世間では西行をスーパースターとして捉える人が多いが、それは歌を知らないか、読んでも理解しない人だろう。西行の出家前の歌を2,3首読めば、「武士」佐藤義清が苦悩していたことがひしひしと伝わってくる。

 

此の歌は「よみびとしらず」になっている。身分の低い人は天皇の命令で作られた「勅撰集」には名前が記載されず「よみびとしらず」となる。従ってこれは出家前に作られた和歌であると言える。

出家して僧になると「勅撰集」であっても名前が記載されることになる。そんなことが佐藤義清の出家の理由になってはいまいか?余りに功利的出家理由なので、西行の評価を貶めることになりかねない。あまたある西行本にはあまり出てこない見解といえる。

 

そらになる心は春の霞にて 世にあらじとも思い立つかな

 

(現代訳)心を無にすることが仏の道への第一歩と分かっていても、春の霞のようにおぼつかない。それでも今の武士としての生活よりも仏道に入るほうが、今の自分にとっては身を救うことになるのだろう。

 

二首目は「世にあらじと思い立ちけるころ、東山にて人々、寄霞述懐と云事をよめる」とあるから、西行が23歳で出家する直前の作だろう。

 

一方、出家から40年ほど経過して詠まれた有名な歌をみてみよう。

 

願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

 

(現代訳)満開の桜の下、願いが叶うなら、いつかこんな美しい満開の桜の下で死にたいものだ。そのきさらぎ(旧暦2月、新暦では約1か月遅れの3月頃)の満月のころに。

旧暦215日は新暦では大体3月下旬から4月上旬になるが、年によって旧暦と新暦は約2か月違うこともある。旧暦ではそんな時には閏月を入れて太陽暦との修正を行う。例えば閏4月といえば4月の後にもう一回4月があることを示す。

 

 

 


「願わくは…」は最も世間に知られている歌だが、荒々しくて私はあまり好きでない。西行らしいともいえるが、日本人の死生観にそぐわない気がする。

「死」は神仏の領域であり、人がむやみに願うものではない。「お迎えが来れば…」「お迎えが来ないので…」と「死」をひっそりと迎えるほうがしっくりくるのは私だけではないだろう。

「願わくは花の下にて春死なん…」とは西行の「煩悩」そのものではないだろうか?

 

私は次の一首のほうが好きだ。

 

吉野山雲をはかりに訪ね入りて 心にかけし花を見るかな

 

平明に詠んでいて、しかも「はかり」と「かけし」が効いている。こういう自然に見せて、実は技巧が感じられるものが好きだ。「日本庭園」と同様に。

 

小林秀雄氏は「西行」の中でこう書いている。

「西行はついに自分の思想の行方を見定め得なかった。…それは、自分の肉体の行方ははっきりと見定めた事に他ならなかった。

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ…彼は、間もなく、その願いを安らかに遂げた。」

この一首がこれほどまでに世間に認知されるようになったのは、この歌が特に優れていたからではなく、小林秀雄氏が感動して「西行」の最後に記したように、西行があたかも預言者のようにこの歌の通り、きさらぎの16日に73歳で亡くなったからだ。

それを小林秀雄氏のみならず多くの識者が感嘆の声で称えているが、死亡日時は単なる偶然の出来事でしかない。そんなことは歌の価値でも何でもない。

 

西行の「桜」を詠んだ歌については別途考察が必要になると思われる。それほど西行にとって「桜」は特別な意味を持っていた。「山家集」全1552首(1572首と言う説もある)を詳細に検討した後に再度「西行と桜」にチャレンジしてみたい。

ちなみに「山家集上 春」の項には桜の花を詠んだ歌が56158首に収録されている。その他にも「山家集中 恋」など、桜を詠った「うた」は多く、すべてを網羅するには数年かかりそうだ。

ちなみに「紅葉」で有名な東福寺では「桜」は修業の妨げになるので、植えないようにしているとのこと。「僧侶西行」の異常さはここでも明らかだと思う。

 

ここで西行の略歴をまとめておく。今後の西行の軌跡を追う上で参考になるだろう。奥州への出発の時期など諸説あるが、出典は目崎徳衛氏の「西行」より。

保延元年(113518歳。成功により兵衛尉に任官(長秋記)。

保延3年(113720歳。鳥羽院北面として、安楽寿院御幸に供奉す(山家集)。

保延6年(114023歳。1015日佐藤義清出家す(百錬抄・台記)。

永治元年(114124歳。このころ洛外に草庵を結ぶ(山家集)。洛外とは嵯峨、東山など複数。

天養元年(114427歳。この年の前後、歌枕を訪ねて陸奥・出羽に赴く(山家集)。平泉で冬を越し、翌年出羽国へ足を伸ばしている。

久安5年(114932歳。この年の前後、高野山に草庵を結ぶ(山家集)。また、しばしば吉野山に入る(山家集)。

治承4年(118063歳。315日、日前宮造営役免除のことを高野山に報ず(宝簡集)。この年、伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結ぶ(千載和歌集・西行上人談抄)。

文治2年(118669歳。この年、東大寺料砂金勧進のため陸奥国平泉に赴き、815日鎌倉にて源頼朝と交渉する(吾妻鏡)。

建久元年(119073歳。216日、弘川寺にて入滅す(長秋詠藻)。

元久2年(12053月「新古今和歌集」に94首入集す。これにより当代随一の「うたびと」と認められる。

 

(世を逃れて鞍馬の奥に侍りけるに、筧(かけひ)こほりて水まで来ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて詠める)

 

わりなしやこほる筧の水ゆえに 思いを捨てし春のまたるる

 

(現代訳)筧の水も凍てつく山寺の厳しさに音を上げて、捨てた俗界が恋しくなった。春になったら吉野の桜を見に行こう。

「わりなしや」で氷が割れないほど寒い事とどうしようもない後悔をかけているのか?いずれにしろ出家直後の西行の仏道修行への未熟さが素直に出ていて好感の持てる一首になっている。こういう時代を経て徐々に西行は仏道へ精進していくことになる。(西行の項 続く)。