後楽園の西行堂跡。京都・奈良と違い東京の史跡は「復元」されることが少ない。( 写真提供 : 深谷 洋 )



僧侶西行


「僧侶西行」について、何ともとりとめがない感じがするのは私だけではない。

高橋英夫氏の「西行」(岩波新書)では川田順氏の感想「(西行の)心の向かうところ、紛然また雑然、何が何だか、かいもく分からぬとも言える」に対して「(西行の)宗教における無方向性は心の全方向性とかみ合っていたとすべきであろう」とフォローしている。しかしなんだか分からぬフォローだ。

西行をスーパースターと思うと、武士としても一流、僧侶としても一流だったはずだという思い込みが生ずる。現実の西行の行動はそれを裏付けるものとはならず、西行の全体像を矛盾だらけにする。

 

こう考えたらどうだろう。

「佐藤義清は若いころ城南祭の「競(くらべ)馬」でも優勝するほど武芸に秀でていたというのは作り話で、実際は武士として宮仕えをすることに思い悩み、武士の生活に行き詰まり、出家して仏道修行に励んだが、違和感から仏道修行に身が入らず、最後に残された選択肢が歌を詠むことであった」と。そうすると辻褄が合うのだが…白洲正子さんからは「辻褄を合わせる必要もない」と言われるかも知れないが。

 

小林秀雄氏は「西行」でこう書いている。

「孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世も、これを護持するために便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」

小林秀雄氏は50年前から何を言っているのか分からない人だと思っていたが、今回読み直してみてやはり分からない文章を書く人だと思う。「過言ではない」と断定した後で「と思う」と結んでいる。断定してしまうとそこで思考が停止するので、「と思う」と書いて思考を継続させようとしている。読者にはわかりにくくなるが、「考える」とは思考を継続させることだと思う。こういう思考回路は私も真似をしたい。

 

別の観点から西行を見てみよう。表現することをどう捉えていたかだ。

出家後、「和歌」を詠むことが「煩悩」ではないかと思い悩む「僧侶西行」の姿はほとんど見えてこない。ただ一首を除いて。

 

(三重の滝を拝みけるに、殊にたふとく覚えて、三業の罪もすすがるる心地しければ)

 

身に積もる言葉の罪も洗われて 心澄みぬるみかさねのたき

 

「三業(さんごう)の罪」とは密教に言う身・口・意の業のことで、心に思い、口に言い、行為でもって罪を犯すことを「三重の滝」で象徴したのであろう。

 

西行は「和歌」以外に「言行録」のようなものをほとんど残していない。「歌論」についても伝聞で伝わるだけだ。明恵上人の伝記に、西行の唯一の歌論ともいうべきものが記されている。かいつまんで結論を急ぐと

「そもそも和歌は如来の真の形体であり、歌を詠むことは仏像を造り、秘密の真言を唱えるに等しい」「自分はこの歌によって仏法の悟りを得た。」

 

西行は本当にそんなことを言ったのだろうか?後半の「歌によって仏法の悟りを得た」くらいは言ったかもしれないが、「和歌は如来の真の形体…」などと大それたことを言ったとは思えない。むしろ、「自分は煩悩が和歌によって昇華されていくのを感じる」「和歌によって救われた」と言ったほうが自然だろう。

 

「願わくは花の下にて春死なん…」は西行の「煩悩」ではないか?と前に書いた。

萬福寺のカイパン(開+木偏に邦)は魚の形をした木魚の原型だそうだが、口に玉のようなものを咥えている。これは煩悩を吐き出すところを示しているという。西行は歌を詠むことにより、煩悩を吐き出し、吐き出された煩悩は珠玉の「うた」として昇華されていったのだろう。何より西行は「うた」と「たび」の人であった。

 

話を西行23歳の頃に戻す。

西行の出家の理由はよくわかっていない。ただ女性問題があったことは多くの方が指摘されていることである。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。

 

おもかげの忘らるまじき別れかな 名残を人の月にとどめて

 

鈴鹿山うき世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらん

 

先の一首は出家直前に詠まれたものとされている。高貴な女性との恋と別れと分かれば、下の句が「名残惜しい女性の面影を月に留めてはみたものの」と言えば、あとは説明の必要がないだろう。BGMで歌謡曲が流れるとしたら「別れの朝 二人は 冷めた紅茶…」である。          

ただこの女性が誰かとなると少し説明が必要になる。戦前は「美福門院得子(なりこ)」(鳥羽上皇の中宮)との説もあったが、最近では「待賢門院璋子(しょうし/たまこ)」が有力である。特に瀬戸内寂聴が1990年に「白道」でこの説を支持して以降、ほとんど異論の出ない状況である。男として考えると西行の17歳年上は不自然と思うのだが…西行23歳としても40歳の女性。「綾小路きみまろ」風に言えば、それは中高年女性の願望・妄想ではないでしょうか?

「失恋」を出家の直接の動機とする説と「友人の突然の死」を出家の直接の動機とする説があるが、いずれにしろ、武士としての行き詰まりに「失恋」または「友人の死」が引き金となって出家したのではないだろうか?

 

次の一首は詞書に「世を逃れて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて」とあるので、出家直後に詠まれたと思われる。

西行の「行く末が知れない不安に揺れる心情」がストレートに出ていて、高橋英夫氏「西行」にあるように「この不確定、不安も確かなことだ。出家遁世の断行は精神的な鈴鹿越えのわざに他ならなかったのである」まさにおっしゃる通り。

さらに白洲正子さんの「西行」では「ふり」「なり」「なる」は鈴の縁語で、鈴鹿山は有名な難所であったから、そこを越えることは若い西行にとって特別の意味を持っていたに違いない。と、これまた深読みをなさっている。

 

西行は治承4年(1180)には63歳になっていたが、高野山から引き移って伊勢に行き、二見浦の山中の庵に起居した。源平戦乱の時世を避けての移住かと思われる。

 

なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに(の)涙こぼるる

 

さかきばに心をかけむ木綿垂(ゆうし)でて 思えば神も仏なりけり

 

先の一首は西行の若い時分(2327歳、出家直後から奥州に旅立つ前)に初めて伊勢神宮を訪ねた時のものだろう。白洲正子さんは「この歌は伊勢で詠んだと伝わるが、実は西行の作かどうか疑わしい。それでも昔から西行の歌と信じられてきたのは、いかにも彼らしい素直さと、うぶな心が現れているからだろう」と書いている。仏道修行だけに励む者には決して詠まれない一首であろう。また、日本人の神に対する考え方を素直に表現しているともいえる。西行は仏道修行の過程で天台、真言、修験道、賀茂、住吉、伊勢、熊野など雑多な宗教の世界を遍歴した。西行の信仰の曖昧さは各方面から指摘されていることで、しかしそれをもって西行の仏道修行は信用ならないとは言えないだろう。本当は当時の誰よりも神仏を崇拝していたのだと思う。


 

西行の晩年

 

次の一首は西行63歳頃のもの。木綿(ゆう)とは楮(こうぞ)の樹皮の繊維を細かく裂いて作った糸で、榊などに掛けて神事に使った。歌の大意は「木綿を榊の葉に垂らして掛けるように、私も榊葉に心をかけて祈りますれば、伊勢の神も仏であり給うことが自ずと分かるものです。南無阿弥陀仏(合掌)。」

第一首と全く同じ心を詠んでいる。

西行の40年に及ぶ仏道修行の最終結論が白洲正子さん言うところの「虚空のごとくなる心」ということになると思う。二つの歌に思想上、変化はない。西行が辿りついたのは40年前と変わらない自分の心つまり「空になる心」であった。西行は出家して40年近く仏道修行に励んだが、出家した23歳で感じた「空になる心」をずっと持ち続けていたとも言える。だからこそ西行は「空になる心」を頼りに、素直に「うた」と「たび」に人生を費やしたと思える。

 

冒頭にて西行には三つの顔があると書いた。

「武士の顔」と「僧侶の顔」と「歌人の顔」が少しは統一されたであろうか?西行を「うた」と「たび」に明け暮れた「うたびと」として捉えれば、西行の全体像にゆがみが生じないと思われる。

 

西行の晩年の秀作を紹介して「西行」の項を終わりにしたい。

 

文治2年(1186)、69歳の西行は伊勢を立って東国を目指す。有名な二首はこの旅の途中で詠んだと言われている。

 

(あずまの方にまかりけるに詠み侍ける)

年たけて又こゆべしと思いきや 命なりけり小夜(さよ)の中山

 

(あずまの方へ修業し侍けるに、ふじの山を詠める)

風になびくふじのけぶりのそらにきえて 行方も知らぬわが思いかな

 

ここからは白洲正子さん「西行」からの引用が増える。

最初の一首は「この時西行は69歳で、40年以上も前に、初めて小夜の中山を越えた日のことを思い出して、激しく胸に迫るものがあったに違いない。その長い年月の経験が、積もり積もって「命なりけり」の絶唱に凝結したのであって、この歌の普遍的な美しさは、万人に共通する思いを平明な言葉で言い流したところにあると思う」

 

次の一首もまずは白洲正子さんの解釈から入る。「この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地であり、ここにおいて自然と人生は完全な調和を形作る。西行が恋に悩み、桜に我を忘れ、己が心を持て余したのも今となっては無駄なことではなかった。数奇の世界に没入した人は数奇によって救われることを得たといえるであろう。これぞわが第一の自薦歌と西行が言った本当の意味合いは、これぞ我が辞世の歌と自分でも思い、人にもそう信じてもらいたかったのではあるまいか?」

 

ここで辞めておけば良いものを蛇足とは知りつつ「理系」の血が頭をもたげる。富士山が煙を吐いていた…

延暦19年(800)そして貞観6年(864)の二度に渡って富士山が噴火している。富士の歌が詠まれた文治2年(1186)富士山は噴煙を上げていたのだ。ちなみに三度目の噴火は約300年前の宝永4年(1707)で、その後富士は永い眠りに入り、現在に至っている。

 

ここまで書いて来ても「西行」はワカンナイ。かすかに「うたびと」西行をイメージできるようになったに過ぎない。しかし、西行はもともとワカンナイ人なのだ。白洲正子さんも後記にこう書いている。

 

「総じて辻褄(つじつま)が合うような人間はろくなものではなく、まとまりがつかぬ所に西行の真価がある」。

 

私には西行の「うた」が煩悩を吐き出している「カイパン」の姿にだぶって見える。西行は煩悩を抱え、行方も知らぬ煩悩に悩み、心を無にして「空になる心」にて煩悩を泡粒のように吐き出し、昇華させていったのだと思う。それが現時点での西行のイメージである。

 

白洲正子さんは分かり易い語り口で、愛情を持って西行の和歌を解釈してくれる。西行研究にお薦めの書籍だ。新潮文庫から廉価版が出ている。

 

 

<参考文献>

高橋英夫「西行」(岩波新書)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

目崎徳衛「西行」(吉川弘文館)

「西行全歌集」(岩波文庫)

小林秀雄「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)

Webサイト「西行の生涯とその歌」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

萬福寺の「カイパン」が煩悩を吐き出しているところ。



後楽園の西行堂跡。建物の基壇が残っているだけだ。( 写真 : 深谷 洋 )。