池田屋事件は元治元年(1864)に、京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新撰組が襲撃した事件。治安維持のためとはいえ、ここで多くの命(志士9名・新撰組3名)が失われた。2009年に居酒屋になった。


京の幕末

 

黒船来航(1853)の10年ほど前に「アヘン戦争(184042)」があり、侵略者「英吉利(エゲレス)」と悲惨な「支那(シナ)」の状況が日本に伝わるのにそう時間はかからなかった。「災害は忘れたころにやってくる」とは言い古された言葉であるが、「忘れ去られた」頃にやってきたのではインパクトが薄く、また「十分周知される前」にやってきても、事の重大さに誰も気が付かない。10年という極めて効果的な時期に黒船が浦賀に来航したことは、「幕末」を考察するうえで大変重要なことだと思う。

 

「尊王攘夷」とはよく考えられたスローガンだと思う。後の「鬼畜米英」「反米愛国」「嫌韓嫌中」と精神的には同じ構造でも、「プロパガンダ」として見れば「月とスッポン」「雲泥の差」であろう。

まず「尊王」に異を唱える人は当時も今もいないと思う。そして「攘夷」である。「夷」とは何か?「夷」とは一般に「異民族」「未開の民族」を指すとされるが、日本人にとって「夷」は「えびす」であり、古くは「えみし」ともいう。「畏敬」の対象であるとともに「夷狄(いてき)」にも通じ、「卑下」の対象でもある。そのような曖昧な言葉であることが、少しずつ違う思いを抱きながらも「若者」を結集させる働きをしたことは特筆に値する。



 

「維新」は20代、30代の「若者」が中心となった。もし、「黒船来航」があと10年早かったら、そうはならなかったかもしれない。情報は幕府の中枢が握り、幕府の対応で「開国」が進められたかもしれない。しかし歴史に「もし」はない。「アヘン戦争」から10年という歳月が若者に日本の「植民地化」への恐れを増幅させ、熟成させるに足る十分な時間だったと思われる。逆に言うなら、「維新」は若者の日本の「植民地化」への恐れから死に物狂いのやむに已まれぬ「大和魂」により、成就したとも言える。

 

「幕末」の項は主に新撰組の「近藤勇」と越後長岡藩の「鶴見保四郎」の生涯を辿ることで浮き上がらせたいと思う。

 

文久3年(1863)庄内藩「清河八郎」の献策を受け入れ、徳川家茂の上洛に際して将軍警護の名目で浪士組が結成された。25日「伝通院(江戸の幕末で写真掲載予定)」に200名を超える規模で集合。28日に再び伝通院に集まった浪士組は江戸を立ち「中山道」を通って上洛の途に就いた。

 「新撰組」は「新選組」とも書き、マニアの間ではこだわる人もいるようだが、近藤勇自身も表記には両方使用しているので、どちらでもよいと思う。

 


「壬生寺」に隣接する新撰組発祥の地。清河八郎率いる浪士組が江戸に戻った後も、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らはここに残り、京都守護職「松平容保」の支配下で「新撰組」と名乗った。ここに「新撰組宿所」の表札を掲げ、10名足らずで発足した。

 

「新撰組宿所」に隣接する「壬生寺」。律宗の大本山(ちなみに総本山は奈良の唐招提寺)。本尊は地蔵菩薩立像(重要文化財)。寺伝によれば、創建は奈良時代に遡り、正暦2年(991)三井寺の快賢僧都により復興され、小三井寺と呼ばれていた。

 


会津藩駐屯地跡(伏見御堂)。この辺りは「四辻の四つ当たり」と言い、「遠見遮断」の構造を持つ。伏見奉行所にも近く、拠点防衛上「筋違い」と同様の機能を持つ。鳥羽・伏見の戦いでは激戦地の一つになった。新撰組もこのあたりで戦ったか?

 

 

「龍馬とお龍(おりょう)、愛の旅 像」。慶應2年(1866)、寺田屋に宿泊中、伏見奉行所の襲撃を受け、龍馬は両手を負傷し、近くの材木小屋に三吉慎三とともに隠れた。その後慎三の働きで、薩摩藩に救出される。おりょうの機転で命拾いをした龍馬は、おりょうと共に、ここから日本初の新婚旅行に出かけることになる。

 

「きょうはし」と書いて「京橋(きょうばし)」と読むのだろう。大阪、神戸、岡山、広島など各地に同じ名前の橋がある。橋の下の流れは「宇治川派流」で淀川に通じている。伏見港は角倉了以などの努力により、流通経済の拠点として十石船、三十石船でにぎわった。鳥羽・伏見の戦いではここも激戦地であった。

 

伏見港から「京橋」を望む。左上の御仁は釣り糸を垂れている。東京にも親水公園は多々あるが、「親水」公園という以上、ここのように水辺に降りて、水に触れる、魚を釣れる。というようにしないと、本当の「親水」公園とは言えないと思う。