金沢八景


小泉夜雨(こいずみのやう)

称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)

乙艫帰帆(おっとものきはん)

洲崎晴嵐(すさきのせいらん)

瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)

平潟落雁(ひらかたのらくがん)

野島夕照(のじまのせきしょう)

内川暮雪(うちかわのぼせつ)

 

水戸藩2代藩主徳川光圀は水戸藩以外では日光、鎌倉、金沢八景、房総くらいにしか行ったことがないと言うと驚かれる方が多い。幕末に講談「水戸黄門漫遊記」が流行り、光圀自身が全国を回ったというコンセンサスが生まれた。光圀は世子時代から国史編纂(大日本史)に取り組み、家臣の佐々十竹(宗淳)らを各地に派遣しており、彰考館総裁であった佐々と安積覚兵衛の2人が助さん、格さんのモデルと言われる。

光圀が鎌倉を訪れたのは延宝2年(16745月で「鎌倉日記」が残されている。もっとも光圀自身が書いたものではなく、家臣が代筆したことが知られている。

 

「新編鎌倉志」は貞享2年(1685)に刊行された。光圀自身が鎌倉を旅行した時の見聞をもとに作成されたもので、全812冊。

東皐心越(とうこうしんえつ)禅師が「新編鎌倉志」に基づき、元禄7年(1694)に金沢八景を比定したことは「初夏の後楽園」で述べた通りだ。

 

光圀は元禄3年(1690)に隠居しているが、隠居に至った経緯はよく分からない。一説には光圀を嫌った五代将軍綱吉の意向が働いたとも言われている。

また、金沢八景が比定された元禄7年(1694)には、光圀は家臣を刺殺している(紋太夫殺害事件)。殺害事件の真相は今でも謎であるが、「金沢八景」比定との関連性はなさそうだ。横溝正史ならきっと二つの事件を結び付け、「金沢八景殺人事件」を書いただろう。

 

光圀は元禄13年(1700126日に73歳で亡くなった。翌元禄14年に松の廊下の刃傷事件があり、その翌年には赤穂浪士「討ち入り」と全員切腹の処断。更に翌元禄16年には「元禄の大地震」と事件・天変地異が相次ぎ、幕府と将軍さらに側用人の柳沢吉保に江戸庶民の批判が集まった。更にその4年後の宝永4年(1707)、南海・東南海地震が連動して起こり、土佐周辺には10メートルを超える大津波が押し寄せ、甚大な被害を及ぼした。江戸から遠い地方での被害なので江戸庶民には余り影響はなかったが、それから49日後に富士山が大爆発するに及んで江戸庶民の不満は頂点に達した。

 

「天が下 二つの宝尽き果てぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」当時の江戸庶民のうっぷん晴らしは狂歌であった。


水戸八景

村松晴嵐(むらまつのせいらん)

太田落雁(おおたのらくがん)

山寺晩鐘(やまでらのばんしょう)

青柳夜雨(あおやぎのやう)

仙湖暮雪(せんこのぼせつ)

広浦秋月(ひろうらのしゅうげつ)

巌船夕照(いわふねのせきしょう)

水門帰帆(みなとのきはん)



水戸八景は水戸藩9代藩主徳川斉昭が天保4年(1833)に江戸上屋敷から水戸に下り、領内を巡視し藩内の景勝地8か所を選んだことに始まる。水戸八景の地には翌年、斉昭自筆の名勝碑を建てた。

これら八景を巡ると約30里(110キロメートル)で、水戸藩士子弟の鍛錬のために徒歩による八景めぐりが奨励された。


江都八景

真乳夜雨(まつちのやう)

不忍晩鐘(しのばずのばんしょう)

佃島帰帆(つくだしまのきはん)

洲崎晴嵐(すさきのせいらん)

品川秋月(しながわのしゅうげつ)

飛鳥落雁(あすかのらくがん)

両国夕照(りょうごくのせきしょう)

墨田暮雪(すみだのぼせつ)

 

60歳以上の方は「歌川広重」ではなく「安藤広重」で教えられたと思う。今は「歌川広重」が正しい表記となっている。安藤家は武士(定火消)の家柄であり、武士を辞める前は「安藤重右衛門」と名乗っていた。幼名を徳太郎、のち鉄蔵、重右衛門、また徳兵衛と称した。絵師歌川豊広の門下生になり、師の一字をもらって「歌川広重」と名乗った。

 

広重は「東海道五十三次」を出したすぐ後に「近江八景」を描いている。しかし、広重は箱根より西には行っていないのではないかと言われており、その後は江戸近郊専門の風景画家として葛飾北斎を凌ぎ、身近な場所に様々な「八景」を発見していった。広重は江戸市民におなじみの場所を独自の視点で見直し、再構成していった。天保7年(1836)に「金沢八景」を出した後は、天保9年(1838)に「江戸近郊八景之内」、翌年には「東都八景」を出している。

 

広重の下絵を見ると、下絵で詳細に描かれていたものが本絵では大胆にカットされていることが多い。広重にとって何かを描くという事は、何かを削除することなのだ。素人の写真では、すべてが映り込んでいて、煩わしいと思うことも多い。素人とは私のことである。

 

「江都八景」をわざわざ取り上げたのは、これが肉筆浮世絵であることと「江都」と書かれていることに興味を覚えたからだ。当時、江戸は「水の都」であった。

 

名所江戸百景

安政2年(1855102日、マグニチュード7クラスの「安政江戸大地震」が関東平野南部を襲った。江戸町方の死者は4741人であり、寺社・武家を含めると死者は1万人くらいであろうと推測されている。

広重は翌年から復興する江戸の風景を「縦絵(たてえ)」にて118枚描いている。復興する江戸の町を描いているとも言われるが、単純に遺書として人生の最後に大好きな江戸の風景を八景と言わず好きなだけ描いてみようとする企画だったと思われる。

ここでは個々の絵については論じない。次回どこか別の場所で「名所江戸百景」の118枚それぞれについて述べたいと思う。

 

歌川広重は安政5年(185896日、62歳の生涯を閉じた。そういえば、「名所江戸百景」には、江戸を去る広重自身の後姿が何枚か密かに描かれている。「広重を探せ」という見方も面白いかもしれない。