平城宮東院庭園

 

鹿苑寺金閣が日本国王の庭なら、平城宮東院庭園は発掘された日本国天皇の最古の庭という事になるのだろうか?

平成22年(2010521日に開催された国の文化審議会において、平城宮東院庭園は特別名勝の新指定の答申が行われた。概要は以下の通り。

 

指定所在地     奈良市法華寺町

  • 指定は既に特別史跡に指定済の平城宮跡の中に含まれます。

 

<概要>

平城宮の東張り出し部は「続日本紀」に登場する「東宮」又は「東院」に比定され、その東南隅部において発見・修復された庭園は「平城宮東院庭園」として広く知られている。庭園は北から南に向かう緩傾斜面の縁辺部に位置し、東と南を平城宮外郭の築地大垣に、北と西を掘立柱塀にそれぞれ囲まれている。発掘調査により、池は8世紀を通じて存続するが、中ごろに大きく造り替えられていることが判明している。その変遷の過程からは7世紀の庭園の池に用いられた直線や垂直状の石積みを持つ護岸手法から、優美な曲線やなだらかな州浜状の汀線を持つ護岸手法へと、庭園の意匠・工法が大きく変化した経過がうかがえる。それは中国及び朝鮮半島から伝わったと考えられる造庭技法を消化し、9世紀以降の日本庭園に見る独自の意匠・工法への転化を遂げようとする過渡的な過程を表すものである。

このように、8世紀における日本古来の庭園文化と大陸伝来の庭園文化との融合の過程及びその後の発展の過程を知るうえで極めて高い造園史上の価値を持つ事例であるのみならず、その独特の意匠・構造・技法が精緻な修復により見事に再生された庭園として芸術上・観賞上の価値は高い。(奈良市教育委員会)

 

お役人の書いた文章なので、慣れていない方には読みづらかったかもしれない。大事なことは赤字にしてあるが、特別史跡だったところに新たに特別名勝の指定が答申されたということだ。10番目の特別史跡・特別名勝の指定答申という事になる。正式には平成2285日に特別名勝に指定されている。

 

特別史跡61・特別名勝36・特別天然記念物75という数字が文化庁の公式ホームページに載っている。合計172だが、実指定件数は162で重複が10あることを示している。

ここで特別史跡・特別名勝の重複指定を受けている庭園を年代の古い順から上げてみよう。

平城宮東院庭園、平城京左京三条二坊宮跡庭園、毛越寺庭園、安芸の宮島・厳島(厳密に言えば庭園ではない)、鹿苑寺(金閣寺)庭園、慈照寺(銀閣寺)庭園、一乗谷朝倉氏庭園、醍醐寺三宝院庭園、小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園。

 

奈良時代が2、平安時代が2、室町時代が2、戦国・安土桃山時代が2、江戸時代が2となってバランスが取れているように見える。鎌倉時代がないのが気にかかるが……

 

   

 

<追記>

「続日本紀」の神護景雲元年(767)に「東院玉殿が完成する」と言う記述があるので、中央の建物を「東院玉殿」と呼んでおく。

 

石組の築山。出土した状態で復元される。中央の石は立つが、ほかの石は倒れている。蓬莱山を模したと言われるが、元はどのような石組だったのだろう。


庭園の南東に建つ楼閣。建物は庭から見られる景として、そして建物から庭を見る装置として価値がある。


反橋を渡ると庭園北東部の建物に到達する。庭を周遊した後、この建物で休息をとったのだろうか?


楼閣最上部の鳳凰。「礼記」では麒麟、霊亀、応竜とともに「四霊」と言われる霊鳥だが、あまり大きく写すと霊験あらたかには見えない。後ろの避雷針がご愛敬。

 

 

 

平城宮東院庭園の東隣に藤原不比等の邸宅があったことは庭園関係の本には書かれていない。

しかし、藤原不比等のプロデュースで平城京への遷都が行われ、その秘めた目的が首皇子(おびとのおうじ)の養育と将来構想であったことは歴史関係の書籍には散見される。首皇子とは後の聖武天皇(701生~756没)である。


首皇子の母は宮子であり、後の皇后光明子(こうみょうし)は幼名を安宿媛(あすかべひめ)と言い、首皇子と霊亀2年(716)に16歳同士で結婚している。ここで重要なのは、首皇子の生母宮子の父は藤原不比等であり、妻安宿媛の父親もまた不比等であることだ。宮子と安宿媛は異母姉妹である。つまり、首皇子にとって藤原不比等は祖父であり義父であるという重複した縁戚関係になる。


首皇子は和銅7年(714)元服と同時に立太子されるも、病弱であったことや皇親の反対もあり、即位は先延ばしされ、その間元明・元正と2人の女性天皇が中継ぎとして起用された。藤原不比等は養老4年(720)に62歳で亡くなっている。当時首皇子は弱冠20歳で、首皇子が24歳で天皇に即位するのに不比等は立ち会えなかった。首皇子を天皇にすることこそ、不比等の秘めた遷都の目的であったとする見方もある。


首皇子の父文武天皇は首皇子が7歳の時に死去し、このため文武天皇の母元明天皇が即位した。元明天皇が藤原京から平城京への遷都を決断するのだが、プロデューサーは藤原不比等であった。他の皇親たちに首皇子が暗殺されるのを恐れていたと思われる。首皇子は平城京遷都後の10歳から天皇に即位するまでの大半を東宮(東院)で過ごし、東宮の南に庭園が造られた。

東宮の東隣には藤原不比等邸があり、首皇子や安宿媛は自由に行き来していたと思われる。不比等は平城京遷都の前に、東宮予定地の東隣にあらかじめ屋敷を確保していたのだ。


藤原不比等は死去する前に自分の痕跡を巧妙に消した形跡がある。平城京遷都も「日本書紀」の編纂も当時の「最高権力者」藤原不比等のプロデュースで行われたはずだが、文献による裏付けがない。遷都の際、藤原不比等は右大臣であり、左大臣石上麻呂は留守居役として藤原京に残されている。また、左大臣が空位になった後、再三左大臣への就任を要請されているが固辞している。ナンバー2を常に占め、実質的に政権を牛耳っていたことは明らかだと思う。


このような処世術を駆使した政治家として他には徳川三代将軍家光を補佐し、寛永14年(1637)以降の実質的な幕府指導者となった知恵伊豆こと松平信綱を思い出す。松平信綱は死の直前まで書類を燃やしていたことが伝わっている。自分の痕跡を消すことに執念を燃やした政治姿勢は何と孤独で、そして後世の人間から見て何と魅力的なことか。


近年では自己アピールが入社試験に義務付けられているようで、戦前の教育を受けた人たちからは「恥ずかしくて見ていられない」と言う言葉を聞く。「秘すれば花」(世阿弥)という言葉は、戦後70年経った今、風前の灯だろう。

 

ともかく、藤原不比等は10歳から首皇子に帝王学を授けた。そして東院庭園では、幼い首皇子と安宿媛が一緒に遊びながら将来の夢を語り合っていただろうと想像することは容易である。東院庭園は当初「幼い愛」を育むために造られたと言うのは過激だろうか?

 

入り口を入って南西から眺めた東院玉殿と庭園。州浜が複雑な汀を演出する。右端に見えるのは中島のアカマツ。



庭園南東の楼閣から見た東院玉殿と池・橋の景。楼閣から見た庭はまた優雅な美しさがある。


庭園北西部の蛇行。東院玉殿から降りてきた貴族たちが、このあたりで曲水の宴に興じたのだろうか?


庭園北東部の建物から反橋を渡り神の領域たる「東院玉殿」に向かうと考えれば、庭園北東部の建物は身支度を整える控えの間と考えることもできる。