物語の庭 勧修寺(かじゅうじ)

 

入園料400円を支払うと絵葉書が一枚渡される。勧修寺についての公式見解と思われるので、そのまま転載する。

 

勧修寺は昌泰3年(900)に醍醐天皇が創建され、千有余年の歴史があります。

庭園は「勧修寺氷池園」と呼ばれ、「氷室の池」を中心に造園されていて、かつ周囲の山を借景し、即ち庭の中に前方の山を取り込んで庭の風景が造られ、広大な自然美を楽しむ「池泉庭園」です。

古く平安時代には、毎年12日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さによってその年の五穀豊穣を占ったと言われ、京都でも屈指の古池になっています。

書院の前庭にある燈籠は水戸光圀公の寄進で、「勧修寺型燈籠」と言い、「水戸黄門さま」らしいユーモラスなスタイルを以て有名なものです。またこの燈籠を覆うように生えている植樹「ハイビャクシン」は、「ひの木科」の常緑灌木で樹齢は750年と言われ、我が国無双の名木として名高いものです。

 

正直これだけ自由の利く庭園は珍しい。ここでは写真撮影はもちろんのこと、芝生に寝転がっても誰にもとがめだてされない。なので、ゆっくり時間をかけて鑑賞したい庭園だ。

ここの「観音堂」は開け放たれて、いつでも観音菩薩が拝める。

個人の好みの問題かもしれないが、生きている人間が楽しめるようにするのが「仏の教え」ではないかと思う。そういう意味でここは大変気に入った。

 

文明2年(1470)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。水戸藩の徳川光圀が復興に陰から力を尽くしたと聞く。

 

中世の古文書には「くわんしゆし」と表記されたものもあり、「かんじゅじ」と読まれたことが推察されるが、寺の公式見解は「かじゅうじ」である。

近くの橋には「かんしゅうしはし」と書いてあるので、「かんしゅうじ」とも呼ばれていたことが分かる。

 

平安時代は良くわからない時代だ。

奈良時代の考証には「正倉院」が役立つ。数万点に及ぶ証拠物件があるからだ。それに比べ平安時代の物証は少ない。応仁の乱(1467)以降の戦乱で失われた古文書も多い。また、公式文書よりも個人所蔵の御物が多くあることも、考証の妨げになっていると思われる。私は歴史家でも考古学者でもない、一介の数奇者なので、詳しいことは分からないが、平安時代を「物語の時代」と捉えている。かな文字が普及し、女性の活躍が目立つ。史実かどうかはともかく、数多くの「物語」が成立した時代であることは確かだ。

 

竹取物語 作者不明 900年ごろ成立

伊勢物語 作者・成立年不明

大和物語 作者不明 951年ごろ成立

宇津保物語 作者不明 980年ごろ成立

落窪物語 作者・成立年未詳

源氏物語 紫式部 1005年ごろ成立

栄花物語 作者不明 1030年ごろ成立

大鏡   作者未詳 1100年ごろ成立

今昔物語 源隆国(説)成立年不明 

 

これらの物語は「話」としては面白いが、史実とは言い難い。しかし、物語を抜きにして「平安時代」は語れない。そこのところを考慮の上、勧修寺の「物語」を読んでいただきたい。

 

勧修寺の東に随心院という寺院があり、このあたりが小野一族の本拠地で、小野小町(825生まれ?900没?)もこのあたりに住んでいたという。



 



深草少将と小野小町の百夜通いの「悲恋物語」が有名だが、深草少将については世阿弥の創作であるとする説と欽浄寺(ごんじょうじ)現在の京都市伏見区墨染駅の近くに住んでいたとする説がある。


「小町の美しさに魂を奪われた少将は、小町の愛を強要するが、小町は百夜通って満願の日、晴れての契りを結ぶことを約した。少将は99日まで通い、最後の晩、大雪のため途中で凍死してしまうのであった。」(「京・伏見歴史の旅」山川出版より)


深草少将が毎日歩いたと思われる随心院から欽浄寺まで歩いてみた。直線距離では5キロ程度なのだが、今では車の交通量の多い京都府道35号線沿いを歩かなければならず、不快であった。一時間ほど歩いたところで珍しく足にまめができ、JR藤森駅でリタイアした。残り15分ほどで欽浄寺まで着いたはずなので残念だったが、深草少将のように凍死するよりはましだろう。「小野小町は美人だったかもしれないが、意地悪で性格が悪かった」と書くと、男の僻み(ひがみ)と言われるのだろうか?

 

小野小町が亡くなった昌泰3年(900)頃に勧修寺が創建されているので、次の物語もほぼ同時代と考えて差し支えないだろう。

 

北山科に鷹狩に出た貴公子藤原高藤(たかふじ)は、突然の風雨にやむなく付近の民家に雨宿りするが、接待に出たその家の娘と一夜の契りを結び、形見に太刀を置いて去る。ところが高藤の不時の外泊を心配した父は以後勝手な遠出を厳禁、その家を記憶する唯一の従者も田舎へ下ったため、会うことも手紙を送ることもできないまま6年の月日が流れた。その間妻もめとらずひたすら再会の日を待ち続けた高藤は、やがて上京した従者に導かれてその家を再訪する。娘には彼の子である女の子が生まれていた。奇縁に心打たれた高藤は彼女と結婚する。彼は出世して内大臣となり、女の子はやがて宇多天皇の女御となって醍醐天皇を生んだ。その奇縁の家の跡が今の勧修寺である。(「今昔物語を読む」(池上洵一)の「雨宿りの奇縁」より)

 

源氏物語の光源氏と末摘花や明石の君との仲もこれに似るが、それも当然で、「いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、……」桐壺の冒頭の一節にある御時は「醍醐天皇」の御時であるとする見方が有力だ。

醍醐天皇(即位期間897930年)の実母(胤子)の出生物語を、紫式部は当然知っていたと思う。

百年前の話は生々しいとは前にも書いたが、紫式部の「源氏物語」が読まれた理由はもちろん紫式部の文才に因るのだが、時代を約100年前に設定したことも同時代の人々に読まれる契機を提供したと思う。

今から100年前、1915年に日本は中国に21か条の要求を突きつけた。このころの話は生々しすぎて私には書けない。現代の紫式部はこの時代を書くべきなのだが、未だこの時代を書いた「物語」を知らない。今は「物語」が書きにくい時代なのかもしれない。

 

京都人(京都人は日本人とは違うという前提)は物事の白黒をはっきりさせるのを嫌い、曖昧にしておくことが多いと聞く。京都人は平安の「物語」の時代を未だに生きているのかもしれない。

 

勧修寺は応仁の乱で荒廃した後、豊臣秀吉が伏見城築城の際に伏見道を通すときに、庭園を南北二つに分断し、寺の勢いは一時衰退する。

江戸時代になると、皇室や幕府の援助で復興する。宸殿、書院、本堂は3人の天皇(明正めいしょう、後西ごさい、霊元れいげん)から下賜されたものだ。

ところでこの3人の天皇は父親が同じ。京都ではいたるところで名前が出てくる後水尾(ごみずのお)天皇だ。中でも明正天皇は徳川秀忠の孫にあたり、その関係で徳川光圀が燈籠を寄進したこととつながる。

 

<参考資料>

京・伏見歴史の旅 山川出版 2003

東京育ちの京都探訪(麻生圭子)文芸春秋 2007

いけずな京都 ふだんの京都(麻生圭子)講談社 2008

 


安永9年(1780)に都名所図会が刊行されると一躍観光ブームが興った。拾遺都名所図会は天明7年(1787)、続編として出版された。勧修寺は続編に掲載されている。


明正天皇が下賜した「宸殿」。

空には4本の飛行機雲。


本堂。

訪れる人も少ない。

 

拾遺都名所図会によれば、「渡猿橋(とえんきょう)」と読める。


舟入の跡と思われる。他に「忘帰亭(ぼうきてい)」跡と思われる場所も確認した。池の南側は荒れている。


小野小町ゆかりの随心院庭園。



徳川光圀が寄進した「勧修寺型燈籠」。

雪見燈籠と書かれた本もあるが、足がない。

 

東側から観音堂を望む。

手前にはハスが群生している。


十月桜と書院。

冬桜と違い、十月桜は八重咲きとのことだ。


浄土の庭として造られた時期もあったと思われるが、文献的には不明。極楽浄土を思わせる。


花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町)