現代の永代橋。カメラの映している方向に「越後長岡藩下屋敷」があった。9歳の鶴見保四郎は幕末の一時期、毎日永代橋を渡った。



鶴見保四郎 安政5年(185835日生まれ

「回顧録」より

 

慶應元年(1865)に父安田多膳が江戸詰めとなりしを以て中山道三国峠を越えて、江戸麹町辰の口の役宅に入る。藩主忠恭公老中を退くに及び、呉服橋の邸に移る。

 

保四郎は7歳の時、忠恭公の庶子鋭橘君(注1)の小姓に召されて近侍す。慶應3年(1867)幕末の天下騒擾(そうじょう)。庄内藩は将軍の命を受け、「薩摩屋敷征討の変」(注2345ありしが、この時初めて武士の生首を手にせられしを見たり。時に江戸市中漸く物騒なりければ、藩主牧野家にては奥方および幼主を偏避安静の地に遷し給いしにより、鋭橘君もまた深川の下屋敷(注6)に移り給う。

保四郎はわずか9歳の身を以て呉服橋の自宅より毎朝深川に通勤し、日没後帰途隅田川(永代橋)を渡るころには往々心細き思いありき。

 

  1. 鋭橘君は越後長岡藩最後の藩主牧野忠毅(ただかつ)の幼名。

  2. 「薩摩屋敷征討の変」は現在では「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」と言われている。慶應31225日(1867・新暦では186819日)の江戸薩摩屋敷(三田)が江戸市中取り締まりの庄内藩らによって襲撃され、砲火により焼失した事件のこと。この事件から一連の流れが戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)のきっかけとなった。

  3. 薩摩の西郷隆盛の意を受けて活動を開始したのは相楽総三であり、三田の薩摩藩邸を根拠地として倒幕・尊王攘夷論者の浪人を全国から多数招き入れた。西郷の思惑は江戸市中を混乱に陥れ、幕府のもとでは江戸市民の平穏を守れないという世情を演出することであった。そのために、相楽総三ら浪人は江戸市中にて放火や略奪・暴行を繰り返して幕府を挑発した。

  4. この焼き討ちによる死者は薩摩藩邸使用人や浪士が64名。旧幕府側では庄内藩2名を含め計11名であった。また捕縛された浪士は112名に及んだとされている。首謀者の相楽総三、伊牟田尚平(ヒュースケン暗殺の実行犯)らは薩摩藩の運搬船に乗って逃走した。

  5. 相楽総三はその後「赤報隊事件」の責任を取って処刑された。慶應4年(18681月、戊辰戦争が勃発すると相楽総三は赤報隊を組織して東山軍先方として活躍。新政府軍に年貢半減の建白書を出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍するが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が「偽官軍」とされ、下諏訪で捕縛されて斬首された。西郷隆盛が明治になって一切の権謀術数を放棄した理由はこの辺にあるかと思われる。

  6. 越後長岡藩の下屋敷は現在の「深川江戸資料館」の前あたりで、霊巌寺や清澄庭園に近接していた。「牧野備前守」とあるのがそれである。 

深川江戸資料館で購入した古地図の「木綿のハンカチーフ」


 

 

 

長岡城攻防戦

 

慶應4年(18684月、越後長岡藩もついに佐幕のやむなきに至り、戦を宣するや父安田多膳は槍隊の隊長として妙見口に出陣し、兄玄太郎(明治になり潔と改名)は15歳なるを以て父に従う。518日夜半、松村藩の提灯かざし、窓の下にて城中を指示し何事か探るがごとき動静を見る。これただ事ならずと考え、祖母同道にて家老職稲垣太郎左衛門に密かに次第を告げしも、稲垣氏のわが軍の必勝を期し別段気に留めざれぬる様子なれば、やむを得ず帰宅就寝す。果たせるかな、未明中島口に当たり砲声駸々。19日朝、わが軍終に長岡城を焼き、退却するの運命に際会せり。(中略)祖母弓子は女性ながらも周章の態なく、曽祖母、予および山本家の一族と共に長岡を立ち退き、栖吉村晋済寺に至り小憩の上、森立(もったて)峠に登りしに偶然総督河井継之助氏あり。祖母曰く「諸公先にわが軍の全勝を期さるるに、今このありさまはいかが」と鋭く攻め立てければ、「いやはや(長岡言葉)」(注7)と謝辞を申さる。祖母弓子は山本帯刀の生母にして磊落剛毅、物に動ぜざる人なり。」

 

<注7>「勝つと言ったのにこのありさまはどうしたのですか?」と河井継之助が攻め立てられたことは中島欣也の「戊辰朝日山」にも書かれている。ただし、発言者は「ますや」の「お嬢」となっている。婆さんが攻め立てるよりよりも若い娘に攻め立てられたとするほうが小説としては面白いだろう。「いやはや」とは「いやはや面目ない」という意味か?

 

長岡城攻防戦についての詳細にご興味のある方は次の書籍をお薦めする。

 

戊辰朝日山(中島欣也)  恒文社

長岡城燃ゆ(稲川明雄)  恒文社

長岡城奪還(稲川明雄)  恒文社

長岡城落日の涙(稲川明雄)恒文社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


永代橋

 

鶴見保四郎が毎日の通勤で渡った「永代橋」は隅田川に架けられた4番目の橋である。五代将軍「徳川綱吉」の50歳を祝したもので、元禄11年(16988月に今の位置より100メートルほど上流に架けられた。

 

幕府財政が窮地に陥った享保4年(1719)に、幕府は永代橋の維持管理を町方に移管する。町方は通行料を取り、橋詰にて市場を開くなどして維持管理に努めた。

今から約200年前、文化4年(1807819日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に、詰めかけた数千人の群集の重みに耐えきれず、永代橋は崩落した。

死者・行方不明者は1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。

後に大田南畝(蜀山人)が不謹慎にも狂歌にしている。

 

永代と言われし橋が落ちにけり 今日の祭礼明日の葬礼

 

平成27年(20153月中旬まで「永代橋長寿化工事」が行われているが、案内板には「落橋事故」の記載はない。イギリスには「ロンドン橋落ちた」という童謡があり、橋は落ちるものだと認識されていると思う。文化の違いと言えば、そうなのだろうが、日本で橋が崩落することを想像する人間は少ないだろう。

 


大田南畝と後楽園

 

大田南畝(1749年生まれ1823年没)は江戸が200年以上かけて育てた最高の文化人の一人で、後楽園を訪れた時の感想を天明4年(1784)「みつがひとつ」に書いている。「唐門」についての記述が面白いので、引用する。

「ささやかなるみちを下りてみれば、唐門ありて閉ざせり。おづおづかきの内をうかがいみるに、つねのおまし所ちかしとかや。いけの水たいらかにして汀の草をひたせり。かきのこなたはつぼ馬場なり。わかうどの馬ととのふる声、はるかにきこゆ。」

 

「つねのおまし所」は6代藩主「徳川治保(はるもり)」の居間という意味か?

「おづおづ垣の内を伺い見るに」との表現には「唐門」が閉じていたので「唐門(正面)」の壮麗な装飾が見られなかったことに対する精一杯の皮肉が込められている。身分の低い御家人の大田南畝は、唐門(正面)から入ることは許されず、裏門(萱門)から出はいりしたと記述にある。「裏門」を「しりへの門」と表現しているあたり、大田南畝らしいと言える。

「いけの水たいらかにして」は「内庭の水辺」を「垣根」越しに覗いた感想と思われる。垣根の南側が「馬場」であることは、いななきで分かったようだ。