葵祭の華「斎王代」の腰輿(およよ)の列。熱中症予防のため、子供たちに飲み物を配っているところで、緊張が解け笑顔の子供たち。


 

葵祭

 

下鴨神社・広報課が平成27年(201551日に発行したパンフレット「葵祭」によれば、「葵祭の始まり」は次のようになる。

 

葵祭は我が国最古の祭り。時は飛鳥時代、欽明天皇の御代に、風雨甚だしく人民難渋し給う。

そこで占部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、賀茂の大神の祭りをせよと、4月吉日、馬に鈴をつけ人に猪頭(いのかしら)を被らせて走らせた。そして祭りを行ったところたちまちにして風雨治まり、五穀豊穣したことにより始まったとの伝え。

平安遷都の後、賀茂神社は山城国の守護神となり、嵯峨天皇は最愛の皇女(ひめみこ)有智子(うちこ)内親王を、賀茂の社に奉仕された。 

以来、一身を神に捧げた内親王を斎王とした葵祭は、国を挙げての祭りとなる。

風香り、空うららかなる5月、牛車の軋みも馬上の近衛使代の姿も、腰輿(およよ)に座す斎王代も、千年の夢の世界へといざなう。

 

引きつれてわたるけしきを来てみれば いつきぞ神のかざりなりける(源俊頼)

 

葵祭の歴史について別の資料には次のような記載がある。

「葵祭は賀茂御祖(かもみおや)神社と賀茂別雷(かもわけいかづち)神社の例祭で、古くは賀茂祭、または北の祭り(石清水八幡宮の南の祭りに対応)とも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていた。

賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、元禄7年(1694)徳川綱吉の時代に祭りが再興されて後、内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬に至るまですべて葵の葉で飾るようになってからである。」

 

また別の資料(京都ガイドブック)には次のような記載がある。

「応仁の乱(14671477)により中止されていた華々しいパレードが再開されたのは、それから200年以上たった元禄7年(1694)のことであり、この時から「賀茂祭」は「葵祭」と呼ばれるようになった。昔、カモアオイの花を頭にさして行列した事からこう呼ばれるようになったとも、祭りの復興に「葵の御紋」の徳川幕府の多大な援助があったからとも言われている。」

 

また別の史料「賀茂別雷神社の社史」から徳川氏関係を抜き出してみる。

 

 

 

肝煎(きもいり)。狩衣(かりぎぬ)姿で行列の一番前を行く二人。乗尻(のりじり)。二番手は上賀茂神社の競馬会(くらべうまえ)の騎手。競争相手なので、左方(さかた)と右方(うかた)で衣装が違う。


童(わらわ)。

検非違使志(けびいしさかん)の笏(しゃく)を持ち、下髪で白生絹(すずし)の水干に袴、黄色の単、藁沓。

 

牛車(ぎっしゃ)。俗に御所車と言われ、平安朝以来乗用車として用いられた。種類もいろいろあり、乗る人の地位によっても異なる。これは牛車の中でも最高級車。


近衛使代(このえつかいだい)。行列中最高位の人で、四位近衛中将がこれを務める。馬は唐鞍で飾馬ともいい、銀面を被らせる。手前の御仁は随身(ずいじん)で護衛の役割。


二本目の風流傘。黄色い山吹が鮮やか。


葵祭の華「斎王代」列の最初は命婦(みょうぶ)。

高位の女官または高官の妻女で、小袿(こうちき)、単、打袴(うちばかま)を着用する。


斎王代の腰輿(およよ)。斎王代の衣裳は、俗にいう十二単の五衣唐衣裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も)で、小忌衣(おみごろも)をその上に着用する。今年の斎王代は現役CAが選ばれ話題になった。 

蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう)。

葵の御紋の入った太鼓。葵祭と徳川氏との関係の深さをうかがわせる一品になっている。


斎王代の牛車。葵祭の最後を飾るにふさわしく、豪華絢爛に装飾されている。


葵祭の後の人気のない下鴨神社「御手洗池」。5月4日、斎王代御禊(みそぎ)の儀はここで執り行われた。


流鏑馬神事。一の的の真ん前に席を確保することが出来た。まずは的をセットするところからスタート。


見事に的を射抜いている。的が割れて、落ちる瞬間が撮れていた。


 

 

 

慶長5年(1600)徳川家康が賀茂社を参拝する。

慶長15年(1610)駿府城の徳川家康に葵を献上する「葵使」が始まる。

寛永5年(1628)後水尾天皇・東福門院の御願により徳川秀忠御造営。現在境内の34棟が、概ね寛永5年造り替えのもので国の重要文化財指定。本殿・権殿は文久3年(1863)の造営で国宝に指定されている。

家康・秀忠の時代から賀茂社と徳川氏は繋がりがあったことが分かる。

  

下鴨神社広報課が外国人向けに作成したリーフレットから英語版を転載する。

 

AOI FESTIVAL

On May 15, the Shimogamo and Kamigamo Shrines hold their annual festival which is popularly known as AOI MATSURI or the Kamoaoi Festival. Kamoaoi leaves are the keynote of the decoration. They are found on the court dresses, on the carriage and even on the head and clothes of the participants. Hence the name of the festival.

 

The festival may be said to be the most solemn and graceful festival in Japan which has been well preserved since the 6th century. From the view of history of Japanese manners and customs, it is a very valuable reminder because it has faithfully followed old customs.

 

The most attractive feature in this fete is the Imperial Messenger`s Procession consisting of a carriage drawn by an ox, flowered umbrellas, courtiers and court ladies in traditional costumes which receive the noble court life in the Heian Period(794-1185).

 

流鏑馬(やぶさめ)と競馬(くらべうま)

 

流鏑馬は下鴨神社で53日に、競馬は上賀茂神社で55日に行われる。

2015年は下鴨神社の流鏑馬を指定席で観覧してきたので、写真を掲載する。

 

(下鴨神社広報課パンフレットより)

53日、糺の森で葵祭の前儀として「流鏑馬神事」が行われる。

「矢伏射馬」とも書かれる流鏑馬は、その文字が示すように馬を走らせながら矢を射ること。糺の森の中央にある全長500メートルの馬場を、公家風の束帯姿や武家風の狩装束姿の射手たちが疾走する馬上から三か所の的を目がけて矢を射る勇壮な神事である。


火長(かちょう)。検非違使庁の役人。細纓(ほそえい)、桃花染荒染の褐衣(かちえ)、黒漆の刀、赤の弓?白羽の矢。足には藁沓(わらぐつ)。後ろの馬上の人が検非違使志(けびいしさかん)。

 

白丁(はくちょう)だと思う。検非違使の仕丁(してい)で傘や沓を持つ。この人たちは何も持っていないので手明(てあき)と言うのかもしれない。白粉張の狩衣を着る。

 

葵祭に限って、車に藤や紅梅、白梅、杜若などの造花を美しく飾る。これを風流(ふりゅう)という。勅使は騎馬で行くから車はいらないが、行粧を華やかにするため曳き出される。

 

風流傘(ふりゅうがさ)。

祭列を豪華にするために、普通の朱傘のほかに、大型の傘に紺の錦水引幕を張り、あふれんばかりの造花を造る。

 

二本目の風流傘のアップ。


内侍(ないし)。女嬬(にょじゅ)を指図する役目。命婦と同様の衣装であるが、白丁が柄の長い花笠傘をさしかけているのでそれと分かる。

 

騎女(むなのりおんな)。騎馬で参向する斎王付きの巫女(みかんこ)。袙(あこめ)の上に汗衫(かざみ)という独特の上衣をつける。藤の造花の輪を肩につけている。


斎院の蔵人所の雅楽を演奏する文官。垂䋝(すいえい)、緋の衣冠(いかん)をつけ、それぞれ楽器を持つ。この楽器は鐘と思われる。下鴨神社で実際に演奏したと聞く。


斎王代の牛車が通り過ぎると葵祭もフィナーレを迎える。



葵祭の後の人通りの少ない下鴨神社参道。賀茂社の神紋(かもあおい)。祭りの御神燈がはかなげに吊るされていた。


目の前を疾走していく流鏑馬は迫力満点。連写の利かないデジカメなので、写真の出来についてはご容赦ください。


流鏑馬神事の後で、お白石をいただいた。持って帰るのではなく、御手洗池でお白石を洗い清め、禊を済ませて奉納した。