壬申の乱と「炬火祭」

三栖神社 炬火祭(たいまつまつり)

 

「筆をとれば物書かれ、楽器をとれば音を立てんと思う。盃をとれば酒を思い、賽(さい)をとればだ打たんことを思う。心は必ずことに触れて来る」(徒然草157段)

 

三栖神社「炬火祭(たいまつまつり)」の話を町のとんかつ屋の女将から聞いて、心が動き出した。

 

「壬申の乱」の砌(みぎり)、天武天皇がこの地を通り、出迎えの民衆が松明をたいて道を照らしたことに祭りの起源があると言う。「日本書紀」にも壬申の乱について記載はあるが、天武天皇が三栖を通過したとは書かれていない。数冊の本を手に取って眺めてみてもそれぞれ記載が違っていて良くわからない。しかし、分からないままでも、祭りは楽しめる。

 

「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(徒然草93段)

 

ここでは「京・伏見歴史の旅」(山川出版社2003)の記述をもとに祭りの起源を探る。

中書島(ちゅうしょじま)の西に肥後橋があり、その近くに金井戸三栖神社がある。社殿も境内も狭隘であるが、風致は樹林が深々として神々しい。濠川端には桜並木があり、春には近くの精密機器メーカー「モリタ製作所」の社員などの花見で賑わう。

肥後橋をさらに西に進むと三栖神社の本社にたどり着く。金井戸三栖神社はもともと三栖神社の御旅所だったのだ。

 

三栖神社の御祭神「天武天皇」がこの地に祀られた理由は、「伏見鑑」その他の記録を見ても「鎮座の記未詳」となっていて、分からない。

 

壬申の乱のとき、三栖は近江朝廷の「大友皇子(おおとものみこ)」の勢力下に置かれた。大友皇子は明治3年(1870)に諡号(しごう)を贈られ、弘文天皇(こうぶんてんのう)として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることが多い。

  

先に「壬申の乱」について概要を記しておく。

「天智天皇」の子大友皇子と天智天皇の弟「大海人皇子(おおあまのみこ)」の対立は、大友皇子が太政大臣になるに及んで決定的になった。大海人皇子は一時出家して吉野に引きこもったが、世人は「虎に翼をつけて野に放つ如し」と噂したと言う。

天智天皇の独断専行に反対する勢力は大海人のもとに結集し、天皇の死後(672)壬申の乱が勃発した。

大海人皇子は吉野を脱出すると美濃・尾張を本拠とし東国の兵を関ケ原に集め、大友皇子の近江朝廷を滅ぼした。


 

 

近年(1974)の発掘調査で大津市錦織遺跡が近江大津宮の跡地であることが確実視されている。引き続く発掘調査でそれらが内裏南門と宮殿回廊と分かり、1979年に国の史跡に指定された。天智天皇が近江大津宮に都を置いたのが667年だから、わずか5年ほどで近江朝廷は滅んだことになる。

夏草や兵どもが夢の跡(芭蕉)

 

大海人皇子は吉野を後に伊勢路を辿り、鈴鹿山を越えて尾張に向かったが、部下の「大伴吹負(おおともふけい)」の一隊は飛鳥から奈良坂に北上して、ここで山城から南下してくる近江勢力と対戦した。大伴吹負はここで大敗して一旦退却するが、「紀氏(きのし)」らの援軍を得て陣容を立て直し、難波に進撃した。

この一隊が木津川を下り、山崎から淀の南に陣を敷いた。

 

722日、近江瀬田橋の戦いで大海人皇子の本隊が大友皇子の軍を撃破した。

瀬田橋から敗走した大友皇子は、わずかな供を従えただけで山崎に身をひそめ自害した。日本書紀には大友皇子の最後を「すなわち還りて山前(やまざき)に隠れて、自ら縊れぬ」と記した。

「壬申の乱」遠山美都男(中公新書1996)によれば、山崎は「山前」であり、淀川河畔の山崎であったかも知れないが、「還りて」という文言を重視するならば、瀬田橋あるいは大津宮の近隣の山前ではないかと推論している。

 

「京・伏見歴史の旅」の記述に戻る。

淀川河畔の山崎に隠れていた大友皇子は自殺するが、その首を捧げて三栖を通過するときに、民衆が松明を灯して暗闇を照らしたという伝説が生まれ、「炬火祭」の起源となったと言うのが最も蓋然性が高いと思われる。

 

翌年(673)、飛鳥浄御原宮において大海人皇子は即位し、「天武天皇」となる。ちなみに「天皇(すめらみこと)」という呼称が使われるようになるのは「天武天皇」からであると遠山美都男は主張する。天智天皇までは「大王(おおきみ)」が使われていた。

天皇とは、道教の世界観において最高の神格を表す称号で、具体的には「北極星」を指し示す。

5世紀後半までに「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」の称号が成立し、この称号が飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。

 

<参考資料>

新版「京・伏見歴史の旅」(山川出版社)2003

「壬申の乱」遠山美都男(中公新書)1996

「日本書紀(下)」宇治谷孟(講談社学術文庫)1988



燃え盛る炬火(たいまつ)に見入る子供。


今年4月2日の濠川沿いの桜。土手にいるワイシャツ姿の男性たちがモリタ製作所の社員かも?

 

点火前の「炬火(たいまつ)」。


三栖神社で「神火(しんか)」から種火を移す。

 

三栖神社を出発した「炬火隊」は、中書島の「大炬火」まで300メートルくらい行進する。

  

大炬火に点火されようとしている。

 

大炬火に火が付いた。

 

炎はビルの3階位の高さだ。時に吹き上げられた炎は4階以上に達する。

 

電線や樹木に火が移りはせぬかと心配。

 

御香宮神社のお祭りと日程は重なるが、「炬火祭」は夜だから、両方楽しむことが出来る。

 

直径1.5メートル、高さ6メートルの炬火。


点火された炬火を持って行進が始まる。

 

消防車も万一の火災に備えて、中書島駅近くに待機している。

 

太鼓の音が点火の瞬間を盛り上げる。

 

瞬く間に燃え広がる。


大炬火に先導されて後を「山車」が進む。左手に見えている山車に「天武天皇」の御霊が載っているのだろう。 

中書島から京橋まで30~40分程度の時間が経過。祭りは興奮と熱気に包まれていた。