指月城の跡地にマンションが建つ

指月城の跡地にマンションが建つと言うので、9月27日に桃山温泉「月見館」で行われた「事前プロジェクト発表会」に出席した。偶然、中秋の名月と重なり、気象条件の良い翌日月見を楽しんだ。


さらしなやをしま(雄島)の月もよそならん ただふしみ江の秋の夕暮れ(太閤秀吉)


 

ライオンズ伏見桃山 指月城

 

事前プロジェクト発表会に申し込んだら、招待状がきた。

その説明文が大変良くできていたので、抜粋して紹介したい。

 

柿本人麻呂が「巨椋(おおくら)の入り江響(とよ)むなり射目人(いめびと)の伏見が田井に雁渡るらし」(万葉集)と詠んだ風光明媚な伏見桃山「指月の丘」。

 

藤原頼通を父に持ち伏見長者と呼ばれた橘俊綱が、延久年間(10691073)に豪壮な山荘を営んだとされる観月の絶景地は、平安京と奈良の中間点に位置し、平安貴族の別荘地として歴史に登場しました。

 

指月の名の由来が諸説伝わっています。

中でも、「宵の天空に光る月、川面に映る月、巨椋池(おぐらいけ)に揺れる月、そして盃に浮かぶ月」の四つを称して指月(四月)としたとされる説は、平安の風雅を思わせます。

 

また、明治天皇も生前からこの土地(指月丘陵)を大変気に入られていたとのことで御陵地となり、現在では遙拝所の広場に石段が設けられ、眺望絶景のポイントになっています。

 

一方、醍醐天皇の勅願寺として有名な醍醐寺(世界遺産)の枝垂れ桜は、豊臣秀吉がその晩年に催した花見の宴によって「太閤千代しだれ桜」として、歴史にその名を残しています。

 

指月城は豊臣秀吉が文禄の役(1592)の後、隠居後の居城として指月の地に築城したのが始まりとされています。

京都、大坂を結ぶ交通の要衝地であったことに加え、平安期から名月の絶景地と謳われ貴族の別荘地であった丘陵地。ここに終の棲家を定めたことに、戦国期以来、築城の名手と謳われた秀吉の卓越した審美眼が感じられます。

 

初代の指月城は文禄5年(1596)に完成しますが、慶長伏見地震に因って倒壊してしまいます。後に近隣の木幡に新たな城が築かれましたが、指月の城は歴史とともに、その所在を隠すことになります。

(中略)

 

秀吉は指月城の築城に際して、伏見港を開き、巨椋池と宇治川を分離させる大規模な工事を行いました。太閤堤(たいこうづつみ)、槙島堤と呼ばれる堤防を建設し宇治、奈良などを結ぶ街道としました。

また、淀城を破棄、文禄4年(1595)には聚楽第も破棄して、指月城は天下の中心とも言える一大拠点となりました。

それに伴い、指月城下では、武家屋敷、寺社、町家、道路が整備されるなど、町割りや開発が急速に進み、全国各地の大名が集結し巨大な城下町を形成しました。

文物の流通と水運に恵まれた景勝の地は、武家ばかりでなく、商工人の生活の場としておおいに賑わい、京での絢爛な桃山文化を発信する拠点として発展しました。

 




その風情は今も面影を残し、秀吉が指月城築城時に鬼門守護の神社とした「御香宮神社」は現代にあっても伏見の産土神として信仰を集めています。また、伏水と呼ばれる地の由来のとおり、名水の地として酒造業が発展するなど、豊かな住環境を保っています。

(終了)

 

 

927日、(有)京都平安文化財の小森俊寛氏が発掘調査の成果を踏まえて立地の歴史的価値について一時間近く説明された。

大変興味深いお話だったが、最後に太閤秀吉が詠んだという和歌を紹介されていたのが印象的だった。

 

さらしなやをしま(雄島)の月もよそならん ただふしみ江の秋の夕暮れ

 

<現代語訳>

信州の更科や松島の雄島は名月が有名だが、それはそれとして、今はただ巨椋池や宇治川に映る月を楽しんでいる。伏見江の秋の夕暮れは素晴らしい。

 

秀吉が詠んだと言われなければ、普通に素直な和歌だなと思って済ましてしまうところだが、高台寺に秀吉直筆の書があると聞いて俄然実物を見たくなった。翌日早速高台寺に向かう。受付と美術館の職員に尋ねたが、今は展示していないとのことで、次回に期待したい。

 

高台寺と圓徳院については紅葉の時期に触れる機会があると思われるので、今回、写真掲載は少なめにして、宇治川の満月をメインに写真を掲載する。

 

「花鳥風月」は古来日本人が愛してやまない美しい自然の風景と、それを重んじる風流を意味するが、最近では「花鳥」はともかく、「風月」が抜け落ちているように思われる。

「風」はクーラー(空調機)が普及して以来、自然環境としてのなじみがなくなった気がする。昔は木々のざわめきや、風鈴の音に風を感じたものだが、自動車の騒音や防犯上の理由から、家を開けっ放しにして風を通す機会が減少している。風はもっぱら「台風」の風力という理化学的な数値に置き換えられているようだ。

 

「月」は太陰暦を使用していた江戸時代には、月初が朔日(新月)で15日といえば満月に決まっていたから、毎日の生活に寄り添っていた。

新政府は明治5年(1872123日をもって、明治6年(187311日にするという布告を出し、太陽暦採用を決めた。

それからは毎日上ってくる太陽に月のような満ち欠けはなく、毎日の生活に張りがなくなったと思われる。「月」の話題は今ではせいぜい月食か中秋の名月くらいになってしまい、かぐや姫もさぞ嘆いていることだろう。

そうやって日本人は日本人でなくなってきたのだ。



桃山温泉「月見館」

宇治川のほとりで歴史を刻む木造3階建ての料亭旅館だ。


月が昇る前の宇治川の風景。

左手に見えているのが「月見館」で、山並みは日野山周辺だろう。 

今日の月はひときわ大きく見える。

スーパームーン(超月)と言うらしい。

 

宇治川に映る月。

日野山を離れて上っていく。


高台寺の庭園と観月台(重文)と開山堂(重文)。

観月台から北政所(ねね)は亡き秀吉を偲びながら月を眺めた。 

開山堂からお霊屋に向かう屋根付きの階段で、臥龍廊と言う。屋根が龍の背に似ているらしい。

 

圓徳院の唐門。

この後、思いがけずに名庭園に出会えた。



かつて宇治川を行き来した三十石船がお菓子になった。

今も時々イベントで三十石船の運航は行われているようだ。


月が昇ってきた。

六地蔵辺り民家の光が生活のにおいを感じさせる。


スーパームーン(超月)に向かって財布を振るとお金が貯まるらしい。貯まるといいね。

 

右手に月のように光っているのは、太閤堤を行きかう自動車のヘッドライトだろう。

 

開山堂から観月台に向かう屋根付き廊下。

中央上部の一段高くなっている場所が「観月台」。

 

開山堂の東方の一段高くなったところに「お霊屋(重文)」がある。秀吉と北政所(ねね)の木造が安置されている。


圓徳院北書院の北庭。もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園のひとつ。賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた。

三つの石橋が架かっているが、その圧倒的な迫力は写真では十分に表現できない(写真の技術が未熟なので)。

実物を観賞することが一番。何回か通った後で、この庭園の魅力を伝えたい。