河合社(ただすのやしろ)にある鴨長明方丈の庵(復元)

 

ツイてない男 鴨長明

 

よくよくツイてない男である。「方丈記(27段)」にこうある。

「すべて、あられぬ世を念じ過しつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、おりおりのたがいめに、おのずから、短き運をさとりぬ。」

<現代語訳>

「こうして、生きにくい世を耐え忍びながら、心を労し続けて生きること、三十余年である。その間、何かにつけて物事が期待通りにいかないことを顧みて、ひとりでに自分はよくよく不幸な運にうまれついていることを悟った。」

 

具体的なことが何も書かれていないので説明が必要だろう。

鴨長明は久寿2年(1155)、下鴨神社禰宜(ねぎ)の家系に生まれた。18歳の時に父が没し、後ろ盾を失った。30歳を過ぎたころ、広壮な祖母の家を出て加茂川のほとりに家を作り住んだが、それはもとの十分の一ほどで、しかも水に近く水害を受けやすかった。そこに長明は20年ほど住んだ。

 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」で始まる「方丈記」は空疎な観念上の産物ではなく、すべて長明自身が実体験から導き出した苦い産物なのだ。

 

「知らず、生まれ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また、知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖(すみか)と、無常を争うさま、いわば朝顔の露に異ならず。」(方丈記3段)

 

鴨長明は、賀茂神社の最高位者の子に生まれながら、それを継げなかったばかりか、一族から弾き飛ばされ、長らく「みなしご」の悲痛をなめていた。のち、歌の才能によって後鳥羽院に拾い上げられた。

後鳥羽院は鴨長明の歌の才能と和歌所での人並み優れた精勤ぶりを愛でて、下鴨の河合社(ただすのやしろ)の禰宜に欠員が出た時、その後釜に据えてやろうとした。その厚意が思わぬ結果を招く。

 

下鴨神社の惣官の鴨祐兼から強硬な反対の抗議が出たのだ。そこで後鳥羽院は折衷案を思いついた。河合社の禰宜には祐兼の息子の祐頼を当て、代わりに別の社を官社に昇格させ、その職を長明に与えようとした。

ところが、長明はその別格の院の厚意を断ってしまったのだ。そんな社の禰宜になっても、鴨社の禰宜にはなれないというのが、その理由だった。

かくして長明は出家する。「すなわち、五十の春を迎えて、家を出て、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。」(方丈記27段)

 

長明30歳を過ぎたころ、祖母の家を追い出されたときに妻子を家に残してきたことが分かる。家付きの嫁に三下り半を突き付けられたという事だろう。

 

長明はいったん東山から大原に逃れ、5年後さらに日野の山中に庵を結んだ。

「ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べる事あり。いわば、旅人の一夜の宿を造り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これを中ごろの栖(すみか)に並ぶれば、また、百分の一に及ばず。」(方丈記28段)

 

 

 

 

 

 

鴨長明の方丈の庵(復元想像図)。

「方丈記」の記述から推察された想像図だが、まさか河合社の境内に復元されているとは思わなかった。鴨長明は河合社の禰宜になれなかったわけだから、複雑な心境。

 

大岩の上に方丈を構えたとなっているので、この地が比定されたようだ。石碑は大岩の左手上に建立されている。


 

 

 

最初の家から比べれば千分の一以下の住居になったと言う。

「その家の有様、よのつねにも似ず。広さはわずかに方丈(約3メートル四方)、高さは七尺(約2メートル)がうちなり。」(方丈記28段)

 

「もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みずから休み、みずから怠る。さまたぐる人もなく、また、恥ずべき人もなし。」(方丈記30段)

 

これが隠棲のたのしみの至極だ。これこそが現世でさんざん苦労した長明が晩年に及んでようやく手に入れた、生存の自由、誰にも遠慮する必要のない、したいときにし、したくないときにはしないでいい、まったくすべての時間が自分の物である極楽境なのである。

 

「たびたびの炎上に滅びたる家、また、いくばくぞ。ただ、仮の庵のみのどけくして、おそれなし。ほど狭しといえども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに、不足なし。」(方丈記32段)

 

方丈記4段から23段までは「打ち続いた天変地異と事件」が長明の口から語られる。

安元の大火(23歳)、治承4年の辻風(26歳)、福原遷都(26歳)、養和元年の大飢饉(27歳)、元暦2年の大地震(31歳)と、生涯に経験した天変地異と大事件が、これを書く老年に達した長明(58歳)の脳裏に、まざまざと息づいていることが分かる。

 

「方丈記」が観念的な人生論になっていないのは、鴨長明が体験した「天変地異と事件」がリアルな思想になっているからだろう。「人と棲み家」についての論考がリアリティを持つ所以である。だからこそ、800年を経過した今でも色あせることなく昨日のことのように読み継がれる理由だと思う。

 

ふつうならば用心堅固な大邸宅で、召使も多く、警備も行き届いた所のほうが安全と考えるところだが、それは長明が体験し、観察した通りの理由によって否定される。もし人が「静かなるを望みとし、愁いなきを楽しみとす」を理想とするなら、そういう大邸宅こそ「財あれば、恐れ多し」であって、かえって安心を得られない。

 

ここまで書いて来て、これは到底「アングリアのサクソン人」には理解されないなと思った。「アングリアのサクソン人」とは海を渡って侵略し、「より広く、より高い」邸宅と庭を所有することが善であると信じて疑わない英語圏の人々のことだ。

彼らは‘Sour Grapes’と言って「方丈記」を理解するだろう。

 

「世にしたがえば、身、くるし。したがわねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心をやすむべき。」(方丈記25段)

<現代語訳>

「世のしきたりに従えばこの身が苦しい。従わなければ狂人と見られよう。どんな所に住み、どんなことをしていたら、この短い人生をしばらくも安らかに生き、少しの間でも心を休めることができようか?」

 鴨長明は1212年に「方丈記」を著し、1216年に没した。来年が長明没後800年になる。

  

<参考資料>

すらすら読める方丈記(中野孝次)講談社文庫2012

清貧の思想(中野孝次)草思社1992

古寺巡礼 京都25「法界寺」淡交社2008

 

日野山中の「長明方丈石」石碑。江戸期の観光名所だった。

明和9年(1772)に建立された。安永9年(1780)には「都名所図会」に法界寺とともに描かれ、「日野村のひがし五町許外山の山腹にあり」と記されている。


大変寂しい場所で、鴨長明が「方丈記」を書いた後も4年間ここに寝起きしたかと思うと、不憫で涙が出てきた。



安永9年(1780)京都の観光名所を紹介した「都名所図会」以来、様々な名所図会が作られた。観光ブームに乗って、江戸から明治時代にかけて60数冊が作られた。天保5年(1834)、「都名所図会」に遅れること54年経って「江戸名所図会」が世に出ると、江戸は一大観光ブームに沸いた。

 日野薬師「本堂」とあるのが法界寺阿弥陀堂(国宝)のことと思われる。国宝の阿弥陀如来坐像が安置されている。明治になって薬師堂(重文)が奈良から移築された。本尊薬師如来立像(重文)が安置されている。


絵図の中央上部、日野山の中腹に「方丈石」の記述が見える。

 

法界寺の阿弥陀堂(国宝)。


法界寺の薬師堂(重文)。薬師如来立像は秘仏。



<追記>

鴨長明が出家した後日、後鳥羽院が「和歌所の寄人に復帰するように」と人を遣わしたところ、長明は次のような歌を詠んで辞退したという。

沈みにき今さら和歌の浦波に よせばやよらんあまのすて舟(「十訓抄」)

 

長明を不憫に思う後鳥羽院の恩情に何の不満もないはずだが、長明にしてみれば心のひだに刻まれた深い傷に気付いてほしかったのだろう。

 

建暦元年(1211)、鴨長明は将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉に下向しているが、またも受け入れられず失意のうちに京に戻っている。ぎりぎりまで俗世に執着した長明は、よくよくツキのない男である。

翌年「方丈記」が書かれているが、「方丈記」には鎌倉下向の件は一切触れられていない。