現在の大阪城天守閣は昭和6年(1931)に完成した。寛文5年(1665)落雷により焼失し、266年ぶりに再建された。
伏見から江戸へ
慶長3年(1598)8月18日秀吉の死後、政権運営は集団指導体制(五大老・五奉行)に移行するが、翌慶長4年閏3月3日大坂で前田利家が死去すると、徳川家康は自分以外の大老を帰国させたうえで大坂城西の丸に入り、秀頼を掌握した。
慶長5年(1600)9月15日、「関ヶ原」の戦いに勝利すると、家康は国家運営の主導権を握る。しかし、家康は江戸に戻ることなく、諸大名への知行宛行(あてがい)などの公務を伏見城で行った。まさに秀吉政治を踏襲する形で家康の政治は進められた。家康の独断で公務を行うことは出来ず、新たな政治体制を樹立させるようなものではなかった。
関ヶ原の戦い後の家康は、確かに国家運営の主導権を握ったが、それは伏見城で公務を行う権限だけであった、と最近の研究では考えられている(「偽りの秀吉像を打壊す」山本博文2013年刊行)。秀吉政治を継承すべく秀吉の遺児である秀頼が存在し、家康は大坂の地を掌握することが出来なかった。当時大坂は流通経済の中心であり、それは秀吉時代から江戸期を通して一貫してそうだった。秀吉の遺言で、「前田利家を後見人として秀頼は大阪城に、家康は伏見城に」というのは、よく考えられた判断だったと言える。
さらに京都には朝廷があり、彼らには武家官位を任ずる権限があった。大阪と京都を掌握しなければ、日本を支配したことにならないのは家康も十分認識していた。
豊臣秀頼はやがて関白に任官され、武家政権の統治者の地位に就くものだと、関ヶ原の戦いの後も広く世上には認識されていた。そうした中で慶長8年(1603)2月、家康は征夷代将軍に任ぜられる。源姓を名乗る武家の棟梁として、将軍という伝統的な官職の任官により権威化を図るとともに、徳川家による全国統治の正当性を打ち出したのだ。
こうした当時の情勢を踏まえて、1603~1615の政治体制は、秀頼を頂点とする「関白型公儀」と家康を中心とする「将軍型公儀」が併存した「二重公儀体制」であったという見解が出された(「関ヶ原合戦と大坂の陣」笠谷和比古2007年刊行)。
慶長20年(1615)5月8日、家康は「大坂夏の陣」でようやく豊臣氏を滅亡させ、京都と大坂を一体的に掌握した。ここに徳川政権による日本列島全域の支配が開始されることになる。
家康が最初に取り組んだのは戦乱のない平和な世の中を実現することであり、具体的には金地院崇殿、林羅山などのブレーンを使い「武家諸法度(7月7日)」「禁中並公家諸法度(7月17日)」など、法制度の整備を行い、大名と公家の掌握に努めた。
慶長20年(1615)7月7日、伏見城に集まった諸大名に対し「武家諸法度」が発布され、金地院崇殿が「城郭補修の届け出や新城の建設禁止」などを読み上げた。ちなみに6日後の7月13日に元和に改元されている。元和は長く続いた戦国時代の終わりと平和の始まりを意味する。この時点で、伏見から江戸へ権力構造を移すことが決定したと考えられる。
さらに7月9日、「豊国廟」の破却を命じた。旧豊臣恩顧の大名の旗印「豊国大明神」を封じ込めるためであろう。
翌年、家康は後事を秀忠に託して、4月17日死去した。
慶長7年(1602)伏見城再建なる。
慶長11年(1606)二条城天守竣工。
慶長12年(1607)江戸城は前年から始まった天下普請により、家康による慶長天守が完成する。
元和5年(1619)秀忠は大坂を幕府直轄とし、破却された大坂城に代わって翌年から新しい大坂城の築城が始まった。
秀忠には二人の父がいたと言うと驚かれる方が多いと思う。名付け親の豊臣秀吉と実父徳川家康である。
天正18年(1590)長丸(秀忠)は12歳になった。この年の正月、長丸は上洛して京都の聚楽第で豊臣秀吉と対面する。家康が長丸を人質として差し出したのだ。対面の前に長丸は、秀吉の正妻・北政所(ねね)の屋敷に入った。長丸は北政所に気に入られ、北政所は長丸をまるで我が子のようにかわいがったと言われている。北政所に実子はおらず、秀忠も前年実の母(西郷局)を亡くしていて、秀忠は北政所を実の母のように慕ったという。
極楽橋から見た大坂城。石山本願寺の時代からこの地に橋があり、ご本尊へ通じるという意味で「極楽橋」と名付けられたという。昭和40年(1965)再建された。
桜門の南側にある豊国神社。京都のほうは「とよくに」と読むが、こちらは「ほうこく」と読むらしい。
淀城の石垣。京都防衛の戦略拠点として、伏見廃城と引き換えに淀藩ができた。伏見城から運んだ石垣だろうか?
淀城から桂川に沿って北に500メートルくらいの所に「淀古城」があった。今では石碑以外に、当時を偲ぶものはない。
その後も終生二人の交流は続いたという。
このことが家康による豊国廟の破却命令が、高台院(ねね)のたっての希望で「朽ち果てるのに任せる」ところまで緩和された大きな理由だと思う。秀忠は高台院に懇願されて、破却を思いとどまったと思われる。
同じ年、長丸は豊臣秀吉のもと12歳で元服し、秀忠と名乗りを変えた。秀忠が天正18年12月の従四位下任官から天正20年9月の従三位・権中納言任官の叙任文書には、いずれも「豊臣秀忠」と記されている。
また、秀吉死後の慶長4年(1599)3月でも「羽柴武蔵守秀忠」と署名している文書がある(大洲加藤文書)。12歳から21歳までを豊臣秀忠で過ごしたことは、秀忠の人格形成に大きく左右したと思う。たかが名前と言うなかれ。「名は体を表す」という「ことわざ」を軽く見るわけにはいかない。
秀忠は豊臣秀吉と徳川家康の二人の父を超える必要に迫られていた。秀忠は冷静沈着で客観的に物事を判断する能力に長けていたので、父を超える思いだけで動いたとは思わないが、物事の決定に際して根底にその思いがあったことは確かだろう。
家康が豊臣秀吉のlegacy(遺産)を破壊するために「豊国廟」の破却を命じたように、元和5年(1619)秀忠は伏見城の破却を決定する。同じ年、大阪を幕府直轄とし、翌年から新しい大坂城の建設に入る。伏見城は二人の父(秀吉・家康)が築城した城であり、京都と大阪を一体的に掌握した現在、その軍事的価値は低下していた。ここで「伏見廃城」に踏み切ることで、新しいVisionが見えてくることになる。
「伏見廃城」後も伏見が軍事面はともかく、交通の要衝であることに変わりはなかったので、元和6年(1620)伏見奉行所を置いた。武家諸法度により大名が勝手に洛中に入ることを禁じ、西国大名が参勤交代の際に必ず伏見を通るようにして、伏見は宿場町と交通の要衝、造り酒屋として江戸期を通じて栄えた。
「伏見から江戸へ権力構造を移すこと(Edo Vision)」は、家康の死後1年を経た元和3年(1617)家康の遺骸を久能山から日光に移してからの、秀忠のたどり着いた結論と思われる。そこには南光坊天海の影も見え隠れする。「天海と寛永寺」については次回触れる。
秀吉のlegacy(遺産)を破壊することは、旧豊臣勢力の拠り所を奪うと言う実効性もあり、大坂夏の陣で廃墟になった大坂城を破却し、元和6年(1620)、秀忠はその上に新しい大坂城を建てた。秀忠は西日本支配を確立するため、大坂城と結びついた秀吉のlegacyを完全に破壊し、より豪壮な新しい大坂城を築く必要があったと思われる。
元和5年(1619)秀忠は大坂を幕府直轄とし、破却された大坂城に代わって翌年から大坂城の築城が始まった。元和6年(1620)藤堂高虎に命じて石垣2倍、濠の深さ2倍の新大坂城の築城が始まり、天守は寛永3年(1626)完成した。
一方、江戸では江戸城の改修に乗り出す。
元和4年(1618)から始まった改修は、西の丸紅葉山東照宮の造営、本丸敷地の拡張、本丸御殿の建て替え、そして何より天守の建て替えが象徴的な出来事だった。
元和8年(1622)に完成した天守は白漆喰の五重五階地下一階の構造で、秀忠政権の正統性を諸大名にアピールし、徳川の世が盤石なものであることを宣伝する舞台装置として機能した。
伏見廃城のその後について補足しておく。
元和9年(1623)伏見廃城と同時に淀城の建設が始まる。廃城となった伏見城の資材を転用し、桂川、宇治川、木津川の合流地点にほど近い川中島に、淀城は築城された。二条城の天守を移築して寛永2年(1625)に淀城が完成した。
伏見城の天守を使わなかったのは、寛永3年(1626)二条城への後水尾天皇の行幸があり、壮麗な伏見城の天守を二条城に移築したからだ。淀城には不要になった二条城の天守を運んだ。
なお、淀城の名前の由来となった側室茶々のお産所は現在の淀城跡から北に約500メートルの位置にあり、混同を避けるため古い方を「淀古城跡」と呼んでいる。
桜門枡形の巨石。城内第一の巨石で、約36畳の大きさがある。ちなみに第二位の巨石は反対側の京橋口にあるが、昭和40年代の調査で一位と二位が入れ替わった。
大坂夏の陣から400年に合わせて、今年から始まった秀吉の御座船「鳳凰丸」。もちろん有料です。
淀城の地理的な条件が分かる江戸期の絵図。北から桂川、東から宇治川、左下(南東)から木津川の三川合流地点である。
淀古城近くの、桂川。流路変更工事により、宇治川との合流地点はずっと先になった。