豊国神社唐門(国宝)。明治に再建された豊国神社、その唐門が「国宝」の理由とは?

 

 

伏見廃城

 

伏見廃城の理由に「一国一城令」をあげる記述が見られるが、私には分からない。と言うか納得がいかない。

豊国神社・豊国廟の破却は「伏見廃城」に繋がる重要な端緒だと思われる。豊国神社・豊国廟について、やや冗長な記述になるかもしれないが、「伏見廃城」との関連に注目して読んでもらえれば幸いである。

 

慶長20年(1615)「大坂夏の陣」にて豊臣宗家が滅びる。直後に徳川家康により、豊国神社・豊国廟の破却が決定。翌年、家康死去。

元和5年(1619)徳川秀忠により、伏見廃城の決定。

元和9年(1623)伏見廃城。

 

豊国(とよくに)神社・豊国(ほうこく)廟

 

慶長3年(1598818日に伏見城で死去した豊臣秀吉に、後陽成天皇が翌年「豊国大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与え、祀ったのが始まりとされる。

 

秀吉の遺体は火葬されることなく、翌年まで伏見城内に安置されていたが、慶長4年(1599413日、東山大仏(方広寺)の東方「阿弥陀ケ峰」山頂に埋葬された(義演准后日記)。

廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、秀吉の死が伏せられた関係で、「大仏の鎮守」と称し、北野神社に倣った八棟造りだった(義演准后日記)。

 

慶長4年(1599416日、秀吉の当初の望み「新八幡」ではなく、「豊国大明神」の神号が与えられた。神号は「豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)」を由来とするが、豊臣の姓を意識したものでもあった。

 

元和元年(1615)、豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向を受けた後水尾天皇の勅許により「豊国大明神」の神号は剥奪され、方広寺の鎮守とすべく「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられ、以後仏式で祀られることになった。豊国神社・豊国廟は家康・秀忠により廃絶された。

豊国神社・豊国廟は破却の運命にあったが、北政所(ねね)のたっての願いで破却は免れ、以後朽ち果てるに任せられた。

 

なお、竹生島の項でも記述したが、都久夫須麻神社の唐門・本殿は創建時の豊国神社社殿を慶長7年(1602)に移築したものと言われている。「国宝」指定を受けているところを見ると、文化庁も認めた説と考えていいだろう。

 

<参考資料>

関ケ原合戦と大坂の陣 (笠谷和比古) 吉川弘文館 2007

秀吉の大仏造立 (河内将芳) 法蔵館 2008

消された秀吉の真実 (山本博文) 柏書房 2011

二代将軍徳川秀忠 (河合敦) 幻冬舎 2011

偽りの秀吉像を打壊す (山本博文) 柏書房 2013

 

豊国廟の入り口。ここから489段の階段を登ると五輪塔(御墳墓)に至る。左手に受付があり、「登拝券(100円)」が必要。

 

中門からさらに急な階段が172段続き、登り切った所が五輪塔(御墳墓)である。


 

 豊国極楽門(とよくにごくらくもん

 

今日より「豊国極楽門」、内府(徳川家康)より竹生島へ寄進により、壊し始む。新神門、大阪より仰せられおわんぬ(瞬旧記・慶長71602)。

 

竹生島の項で豊国廟「極楽門」は豊臣秀頼の命により移築したと記したが、瞬旧記によれば、徳川家康からの寄進だという。どちらがより正確な表記なのか、分からない。豊国廟では、移築された「豊国極楽門」の後に「新神門」の建立が豊臣秀頼から命じられている。

この時、なぜ家康が「豊国極楽門」を竹生島に寄進することにしたのか、その理由は分からない。

 

豊国神社の再興

 

慶應4年(1868)、江戸幕府が倒れると、明治天皇は豊国神社の再興を命じた。明治政府により、秀吉は天下を統一しながら、幕府を開かなかった尊王の功臣とされた。明治13年(1880)、方広寺大仏殿跡地(現在地)に社殿が完成し遷座が行われた。

 

明治30年(1897)には神社境外地の阿弥陀ケ峰山頂に、伊東忠太の設計による巨大な石造五輪塔が建てられ、翌年豊臣秀吉没後300年祭が大々的に挙行された。

 

豊国神社の唐門(国宝 1953指定)

 

国宝建造物は2009年指定「迎賓館赤坂離宮」を含めて221件(20141210日現在)ある。明治以降の建造物で国宝に指定されたのは「迎賓館赤坂離宮」が初めてだという。京都にいると「国宝」には驚かなくなったが、「国宝」に指定されるにはそれなりの理由がある。

 

明治に再建された豊国神社の唐門がなぜ「国宝」なのか調べてみたが、最初よく分からなかった。この唐門は元々伏見城の城門(じょうもん)であったという説と、かつての豊国廟の門であったとする説があり、混乱に拍車をかけた。

 

少し整理すると次のようになると思う。(間違っていたらご指摘ください。)

16191623年、伏見廃城に伴い、伏見城の唐門は二条城に移築された。城門は通常「唐門」ではないので、多分朝廷の使者を伏見城に迎える時だけ扉を開いた勅使門(ちょくしもん)が「唐門」だったのだろう。

 

寛永4年(1627)、紫衣事件勃発の年に理由は定かではないが、金地院崇殿が二条城の唐門を譲り受けた。

253年後の明治13年(1880)、豊国神社再建にあたり、南禅寺金地院から現在地に移築された。

 

これだけの歴史的背景があれば、「国宝」指定もうなずける。

 

 

63段の階段を4回と61段の階段を登るとやや広い場所に出る。さらにそこから4段上がって中門に至る。


五輪塔。設計者伊東忠太は明治~昭和期の建築家で、東京では靖国神社の石鳥居や湯島聖堂などが有名。