無鄰菴庭園。奥に見えているのが「借景」東山。川の源流である。
借景の庭
進士五十八氏の「日本の庭園」(中公新書2005年)によれば、
「私の考えでは、自と他、内と外、庭園と外界、人間と自然との関係……には三段階あると思う。それは造形―修景―借景の三段階である。」と述べた後で、「借景」について次のように述べている。
「それが借景技法では、相手にはまったく手も触れず、もちろん何の改変もせずに、完全に自分のものとすることができる。相手を尊重しながら一体化する。自他の柔らかな結合。それでいながら自分自身の落ち着き場所を上手に相手世界のなかに見いだす。日本人独特の思想がこの借景技法に反映されている。」
造形は「自然」の「改変=人間化」を指し、「修景」は本体の「自然」を改変せずに、人間側に取り込む方法であることを示した後に、借景について分かり易く解説している。示唆に富んだ文章であると思う。
「借景の庭」として最初に思いつくのは「無鄰菴庭園」である。
初めて「無鄰菴庭園」を訪れた時、連れの一人が「何の変哲もない庭」という趣旨の発言をされていた。
「何の変哲もない」とは、私見ではあるが、庭園に対する最高の褒め言葉だと思う。
自然を改変して人工的に造形しながらも「何の変哲もない」とは、里山などに「自然」を見出すのと同じように、人工物に「自然」を見る特殊能力である。
造りに造りこんだ人工物の極致である「庭園」に、「自然」を見ていただければ「作庭者」としては満足であろう。「無鄰菴庭園」を作庭した7代目小川治兵衛(植治)は明治を代表する作庭家と言って間違いないと思う。
植治の作品は関西に集中しており、東京では北区の「旧古河庭園」と港区の「国際文化会館」くらいであろう。
私が庭園に目覚めたのは「旧古河庭園」を見てからである。旧古河庭園はジョサイア・コンドルの洋風建築と洋風庭園が有名で、付け足しのように「日本庭園」が配置されている。初見で感動するのは洋風建築と洋風庭園だろう。何度か通ううちに、「日本庭園」の良さに気がつく。
同じ日午前に行った圓通寺庭園。
比叡山を借景とした後水尾天皇の別邸庭園。後水尾天皇はその後、修学院離宮を造営する。
この流れが美しい。
琵琶湖疎水の水を最初に引き入れ、山形有朋の私邸庭園として作庭された。
上流部の淀み。
石の配置が植治らしい。
最上流部の三段落ちの滝。
龍門瀑の応用と思われるが、定かではない。
伏せ石と石橋。
川の流れに逆らわない配置は見事。
東京タワー(1958年)、太陽の塔(1970年)、東京スカイツリー(2012年)など屹立した塔は、自然界にはない明らかな人工物と分かる。明らかな人工物は「醜悪」であるか「美麗」であるかはともかく、一時注目を集める。しかし、一度行けば、複数回行こうとは思わないだろう(何度も行っている方はゴメンナサイ)。
日本庭園の良さは「人工物」でありながら「自然」に近い雰囲気を持っているところだろう。作庭記(平安時代・橘俊綱作とされる)は江戸中期までは「前栽秘抄」と呼ばれ、「秘書」の扱いだった。
「石をたてん事、まづ大旨をこころうべき也。地形により、池のすがたにしたがひて、よりくる所々に、風情をめぐらして、生得の山水をおもはへて、その所々はさこそありしかと、思いよせたつべきなり。」
「生得の山水」とは「自然」であり、「さこそありしか」と「自然」に似せて作庭するように書いてある。千年前の日本人(橘俊綱)驚くべき慧眼である。
「日本庭園」は行くたびに新しい発見がある。
今回、無鄰菴庭園では「借景」の極意を見たような気がした。
「借景」は目立ってはいけない。存在はするが、主役を奪うような真似をしてはならない。静岡県に名庭園がないのは「富士山」のせいであると書くと「静岡県人」は怒るだろうか?
「富士」は「不二」とも書き、無双の存在である。「富士山」を「借景」にしたら、「庭園」は脇役に追いやられるだろう。静岡で作庭するときは敢えて「富士」を隠す必要があるだろう。
無鄰菴庭園の借景は「東山」であるが、目立たなければ、どこの山でもよい。「無鄰菴庭園」の美しい水の流れの源流があの山だろうと思わせれば、それで山は借景として「庭園」に取り込まれたことになる。
残念なことに東京の庭園は「借景」が目立ちすぎる。東京ドームや文京区役所が目立たない建物ならば、と思うのは私だけではないだろう。
無鄰菴庭園のエントランスから続く飛び石。
最初から並の庭園ではないぞという意気込みが伝わってくる。
流れの上流から下流を見た。
この建物で、伊藤博文や山形有朋らが日露戦争開戦を密議したと言われる。
書院からの眺望。
借景が庭に溶け込んでいる。
今までは余り気付かなかった燈籠と手水鉢。
添景物も目立ってはいけない。
流れの合流地点も自然にできたように思わせる。まさに「作庭記」どおり「さこそありしか」だ。