後楽園から失われた6つの景について「後楽園庭園保存会」が平成21年(2009)詳細に調査して、復元運動を展開している。
幻の後楽園八景
後楽園の樹齢400年と言われたカヤノキが失われて間もなく一年が経つ。
後楽園は寛永6年(1629)、神田上水を小石川水戸屋敷に引き入れ、作庭が開始され、徳川実紀によれば、5年後の寛永11年(1634)には一応の完成をみて関係各位にお披露目された。
それから約380年が経過し、後楽園から多くの景色が失われた。試みに失われた八景を選んでみた。
唐門
長橋
西行堂
清水観音堂
音羽の滝
八角堂(八卦堂)
茶室(琴画亭)
鶴島
1. 唐門
ここに高さ約5メートルの「唐門」が建っていた。現在再建に向けて調査中と聞く。
3. 西行堂
西行堂の基壇部分が残っている。夏には上空から冷気(霊気)が落ちてくることで知られ、パワースポットになっている。
4. 清水観音堂(如意輪観音)
清水観音堂に安置されていた「如意輪観音座像」。南北朝時代の作と推定される。平成25年(2013)に公開された。
5. 音羽の滝
「音羽の滝」石組が残っている。水を流し滝を再現する試みが計画されている。
7. 茶室(琴画亭)
琴画亭(きんかくてい)跡。文化財的な価値は分からないが、復元してお茶とお菓子を供すれば、来園者が増えることは確実だろう。それをやらないのは……
唐門は昭和20年(1945)空襲で焼けて失われた。
長橋は元禄16年(1703)11月23日の元禄大地震で被害を受け、6代治保(はるもり・1766~1804年)の時代に廃棄された。
西行堂は唐門と同じく昭和20年空襲で失われた。
清水観音堂は大正12年(1923)関東大震災で焼失した。御本尊の如意輪観音像は助け出されて大切に保管されている。
音羽の滝は元禄16年の元禄大地震で壊れた。その後何度か修復されたが、今は涸滝となっている。
八角堂(八卦堂)は清水観音堂と同じく、関東大震災で焼失した。安置されていた文昌星像は助け出され、彰考館徳川博物館(茨城県水戸市)に保管されている。
茶室はいくつかあったようだが、現在はない。琴画亭(きんかくてい)跡が梅林に残されている。
「鶴亀蓬莱」庭園として亀島があって、鶴島がないのは不自然であり、状況証拠を積み重ねると作庭段階ではあったと考えるのが妥当である。
2. 長橋
左手のケヤキの大木から右手の紅葉林に向かって「長橋」が架かっていた。水面下に長橋遺構が確認されている。
4. 清水観音堂
標高約18メートルの最高部に「清水観音堂」が建てられた。左手の手水鉢は寛永期の物と思われる。
4. 清水観音堂(模型)
清水観音堂の立体模型。平成20年(2008)完成。後楽園庭園保存会が作製し、東京都に寄贈した。
6. 八角堂(八卦堂)
八角堂(八卦堂)跡。八角形の基壇部分が残っている。映っていないが、手前の立手水鉢も味があって良い。
8. 鶴島
明治大学所蔵の「水戸様小石川御屋敷御庭之図」。庭園完成後、元禄の大地震が起きる前の様子を伝える数少ない史料の一つだ。過去に2回見せていただいたが、亀島の左に長く伸びる松林は、「鶴首」に見立てることが出来る。
2020年に唐門が再建されたことにより、幻の後楽園八景のうちの一つが解消された。
復元された唐門の正面には三光鳥のレリーフが極彩色で蘇った。ちなみに三光鳥は静岡県の県の鳥で、夏鳥として東南アジアから飛来するという。
ツキヒホシ ホイホイホイ
と鳴くことで、三光鳥と名付けられた。
長橋については当時、何を象徴しているのか判然としていなかった。10年の歳月を経て、今では琵琶湖の瀬田唐橋を模していることがはっきり分かる。
もののふの矢橋の船は速けれど 急がば回れ勢多の長橋
室町時代宗長という連歌師が作った狂歌で、急がば回れの語源となった歌で有名。
調べてみると、平安時代から歌枕として知られ、長いもののたとえになっていた。江戸時代の和歌・俳句にも出ており、当時長橋と言えば、瀬田唐橋を指すことはいわば常識だったのだろう。