萬福寺境内にある「売茶堂」入口。小さくて見落としてしまいそうだ。私も散々探して、結局お寺の関係者に聞いてたどり着いた。
売茶翁は61歳になって初めて売茶を業とし、京都鴨川のほとりに「日本初の喫茶店」とも言われる「通仙亭」という茶店を構えた。自ら茶道具を担いで、春は桜の名所、夏は清流の渓辺、秋はもみじの美しい東福寺の通天橋あたりへ出かけ、清明な自然の中で茶を煎じて売ることもしばしば。そこで掲げられていたのは「茶銭は黄金百鎰(ひゃくいつ:小判2千両で現在の貨幣価値で一億円以上)より半文銭(一文は現在の貨幣価値で25~30円くらい)までくれしだい。ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」
身分を問わず、茶代を払おうと払うまいと気にかけず、禅を説きながら、いろいろな世の中の出来事などをのどかに物語って聞かせたので、たちまち人々の評判になった。
禅を説きながら茶を煎じて飲ませた売茶翁のもとには、多くの文人墨客が集まり、いつしか、「売茶翁に一服接待されなければ、一流の風流人とは言えぬ」とまで言われようになった。
なかでも江戸時代の天才画家と言われた伊藤若冲(1716~1800)は売茶翁の生き方に憧れ、自ら「米斗翁(べいとおう)」と名乗ったほどだ。人物をあまり描かなかった若冲だが、売茶翁の絵を数点描いている。伏見の石峯寺(せきほうじ)には伊藤若冲が10年余りをかけて完成させた五百羅漢の石仏がある。表情豊かな五百羅漢石像は味があるので、併せて掲載する。
伊藤若冲の描いた「売茶翁」。
伊藤若冲が下絵を描いた五百羅漢石像。伏見深草「石峯寺」にある。
売茶翁は68歳の時佐賀藩の国法に従って蓮池に帰り、暮らしぶりはどうですか?と尋ねられ「こういう具合に暮らしている」と答えたと言われている。聞いた人が「こうゆうが(優雅)に暮らしている」と聞き違えたそうで、それを聞いた売茶翁がその後に姓は「高」で号を「遊外」と称した。当時の文人のしゃれで、還俗してからは「高遊外」に改名したという。
売茶翁の行動は、当時の禅僧のあり方への反発から、真実の禅を実践したものであったと言われる。禅を含む仏教は寛文11年(1671)に作られた寺請制度により、お布施という安定した収入源を得て安逸に流れつつあった。また、禅僧の素養として抹茶を中心とした茶道があったが、厳しい批評精神を持つ売茶翁の目には形式化したものに映った。そのため茶本来の精神に立ち返るべく、煎茶普及に傾注したとも言われている。
しかし、売茶翁には「煎茶道」を確立しようという意図はなかったと思われる。京都で生業(なりわい)として名所で茶を煎じ、名もなき道端で茶を煮て往来の客に売って露命をつなぐことが生活そのものだった。売茶翁を「煎茶道」の祖と崇めるのは、華道や茶道のように「煎茶道」でも家元制度を企む俗人の考えることで、売茶翁には関係のない話だ。
売茶翁に純粋に傾倒するなら、恋人や友人と茶を飲み世間話に無常の喜びを感ずることが人生の楽しみと知るべきである。
仙台「売茶翁」に電話がないのも、禅問答として考えれば自ずと解答が得られるのではないだろうか?電話によって得られるものと失うものを天秤にかければ、どちらが優雅に暮らせるか「売茶翁高遊外」にははっきり見えていただろう。
売り手が優雅でなければ、お客様を優雅な気持ちにさせることは出来ない。商売第一ではなく、優雅を第一と考える仙台「売茶翁」創業者の気持ちはこんなところにあったのではないだろうか?
<追記>
2013年に売茶翁没後250周年を記念し、煎茶道関係者により、鴨川のほとり(京都府立植物園の近く)に記念碑が建立された。早速写真を撮りに出かけた。