台風19号が通過した翌日、北西の方角(城南宮方向)にきれいな虹が出た。こんなきれいな虹は何十年ぶりだろう。ところで、城南宮は「方除けの神様」として良く知られている。早速、城南宮に行くことにした。
近鉄「竹田」駅で降りて城南宮に向かって歩くと、最初に「安楽寿院」に出る。鳥羽法皇が鳥羽離宮東殿の御堂として造営された寺だ。久安4年(1148)鳥羽法皇の中宮美福門院(びふくもんいん)得子の御願で多宝塔が建てられ、新御塔と称したが、のち、これが近衛天皇の御陵となる。現在の多宝塔は豊臣秀頼の再建で、慶長11年(1606)のものである。御陵に多宝塔が用いられるのは珍しい。
近衛天皇は鳥羽天皇と美福門院得子の間に保延5年(1139)に生まれ、永治元年(1141)に3歳で天皇になり、久寿2年(1155)にわずか17歳で亡くなっている。
境内の西に三面石と呼ばれる石仏があり、現在二面残されている(残りの一面は京都博物館にあるらしい)。摩耗が激しいが、それでも何か神聖な感じがしたので手を合わせ、写真を撮らせていただいた。
実はこの時外国人のカップルが近くにいて、他には誰もいなかったせいか、あるいは手を合わせる姿に勘違いしてか、私に質問してきた。ここは神社か寺院かというような問だったと思う。鳥居の近くだったのでとっさに「shrine」と答えたが、間違えたかもしれない。いい加減な日本人と思われたら、面目ない。その後に「近衛天皇の陵墓」はどこか聞かれたので、それは正確に教えることが出来た。
榊葉に心をかけん木綿(ゆう)垂でて
思えば神も仏なりけり(西行)
外国人に西行のこの和歌を英訳できれば良かったのだが、私の英語力では無理だ。
北向不動院
鳥羽上皇の勅願によって大治5年(1130)創建されたもので、当時は五重塔・山門などがそろっていたそうだ。
北向不動院と俗称するのは、鳥羽上皇の息災延命祈願のため、北の御所に向かって建てられたからである。本尊は不動明王で、元は仏師康助(こうにょ)の作であったが、現存のものは興教大師の作となっている。
境内には不動明王像が複数寄進されているが、北を向いた一際目立つ「不動明王像」があったので写真に収めた。不動明王は大日如来の化身で、滝に打たれて修行するとその姿を現すとされている。また、滝そのものが不動明王であるとする考えもある。
城南宮
「城南離宮」と書いた扁額をかけた大鳥居に到着。ここからが神域になる。緊張してさらに先に進むと城南宮の左手に「楽水苑」庭園がある。「楽水苑」庭園は後日ゆっくり楽しむことにして、さらに先に進むと左手に「三照宮社」と書かれた小さな末社が気になった。参拝を済ませて、写真に収める。
城南宮の鳥居を過ぎて境内に入ると「拝殿」と「本殿」が南北一直線に並んでいる。お参りをする前に写真を撮るのは不謹慎であるが、ここは興味が優って写真に収めた。お参りを済ませて鳥居を後にし、振り返ると、奇妙な文様が鳥居の中央に描かれているのに気付いた。
家に帰って調べてみると「神紋」だそうで、これが「三照」の正体だった。つまり、「月・日・星」の三照である。星は無数にあるが、北極星は特別の星で、全天中全く動じず、星の中の星と言える。「月・太陽・北極星」だから三つで良いのだ。「三照宮社」「拝殿」「本殿」が南北一直線に並ぶ構成が「月・日・星」を表しているのかも知れない。
野鳥にも「サンコウチョウ(三光鳥)」というのがいて、主に台湾や東南アジアに生息し、日本にも夏鳥としてやってくる。「ツキヒ-ホシ(月・日・星)、ホイホイホイ」と鳴くことから三光鳥と名付けられた。昭和39年に静岡県の「県民鳥」として指定されている。鳥類図鑑ではよく見るが、私は本物を見たことがない。
城南宮の代名詞「方違え(かたたがえ)」について
方違えの習慣は平安時代の初めごろに起こったもので、初めは自分の生年と同干支の方位を避けるといった程度のものであった。のち、陰陽道との関係から天一神(てんいちじん)、金神(こんじん)の遊行する方位を忌避することにより、これが一般庶民にまで流行するようになった。今でも近所のお婆さんなどが「今年は西に行っちゃいけないよ」など余計なことを言ってくる。これで日常生活に支障が出るようでは困るが、退屈な日常生活のスパイスになる程度なら構わないだろう。
鳥羽離宮(城南離宮)址調査研究所がこの一角に設けられ、昭和35年以来発掘調査が進められている。杉山信三博士を中心にした発掘調査の結果、鳥羽離宮は自然の池の汀に沿い、南殿・北殿・田中殿・東殿と配置され、中島も作られた。当時は東に鴨川、西に桂川が流れ、西に鳥羽の作り道が通り、池沼に囲まれ、仏堂、御所が立ち並んでいた。
近くに西行寺跡といって、かつての佐藤義清(のりきよ・後の西行)の邸宅跡がある。西行がこのあたりをうろうろしていたと思うと面白い。
平清盛と同年代の佐藤義清は鳥羽上皇に仕えた北面の武士であり、城南宮に続く馬場殿で行われた城南流鏑馬にも関わったとされる。鳥羽上皇は、祖父白河上皇が院政の拠点として築いた鳥羽離宮を拡張し、御所や御堂の造営に力を注いだ。
文武に秀でた佐藤義清は離宮の南殿の庭に美しく咲く菊の花に寄せて、「君が住む 宿の坪をば 菊ぞ飾る 仙(ひじり)の宮と 言うべかるらむ」と詠み、上皇の御世を寿いだ。これが西行の和歌でもっとも初期の作と言われている。
西行の和歌に深入りするのは、私の手に余るのでここらで辞めておく。
佐藤義清は23歳で妻子を捨てて出家するまでこのあたりに住んでいた。そして出家した後に鞍馬寺に身を寄せ、24歳の時には嵯峨に草庵を結んだ。27歳の時に奥州の旅に出、29歳の時には吉野山に草庵を結び、後世の人々が草庵を「西行堂」と呼ぶようになった。