鷲峰山(じゅぶざん)高台寺 臨済宗建仁寺派
東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が、慶長11年(1606)開創した寺である。
造営に際して徳川家康は、政治的配慮から多大の財政援助を行ったので、寺観は壮麗を極めた。
寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋(おたまや)、傘亭(かさてい)、時雨亭(しぐれてい)、表門、観月台等で国指定の重要文化財になっている。
北政所は天正16年(1588)に従一位に叙せられ、慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り、寛永元年(1624)9月6日に77歳で亡くなった。
圓徳院
北政所は「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長10年(1605)、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と、その前庭を山内に移築して移り住んだ。時に58歳。
臥龍廊。開山堂とお霊屋を結ぶ階段で、龍の背に似ていることから名付けられた。
お霊屋に続く階段。
奇跡的に観光客の列が途切れた。
龍の置物。
ごく最近のものだと思われる。
圓徳院の紅葉もまだ早い。
本堂前の紅葉がようやく見ごろを迎えてきた。
第一の石橋。
重厚な自然石で出来ている。
第二橋の奥の様子。
左奥にかけて、枯滝石組みとのことだが、よくわからない。
鶴亀蓬莱の石組みであり、こちらは亀島だと説明されたが、どれが亀頭石か分からない。たぶん、カメラに向かってくるウミガメの姿と思われる。
これが今日の圓徳院の起こりであり、高台院は77歳で没するまでの19年間をこの地で過ごした。
生前の高台院を支えていたのが、兄の木下家定とその次男の利房である。圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされた。寛永9年(1632)、高台院の没後9年目のことである。
北庭(国指定 名勝)
もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園の一つである。賢庭作で後に小堀遠州が手を加えたと言われる。
池泉回遊式だが、現在は枯山水になっている。
原点となるのは東北部で、枯滝石組みを構成し、築山を中心にして左右に多数の石組みを二等辺三角形にまとめて数群展開させ、あるいは蓬莱石組みを作る。
池泉にかかる数個の橋は見事な巨石をあてているが、その厚さからくる迫力はこの庭の特筆すべき点でもあろう。
このように巨岩大岩がふんだんに置かれている庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。
この一本だけが色づいていた。
他は3分というところか?
時雨亭(重文)。
珍しい2階建ての茶室で、伏見城からの移築。
高台寺の庭園と観月台(重文)と開山堂(重文)。観月台から北政所(ねね)は亡き秀吉を偲びながら月を眺めたという。9月28日撮影。
圓徳院の北庭に三尊石組みを発見。
驚くことではなく、複数あるとのこと。
第二の石橋(左)と第三の石橋(右)。
第三の石橋だけは切石のようだ。アクセントか?
茶室前の手水鉢。
重森三玲によれば、宝塔の笠を横に立て中央部を削り込んだものだと言う。
第三の石橋。この左の島が鶴島というが、鶴首石が見当たらない。謎だらけの庭園だが、石の一つ一つに迫力があり、桃山時代の勢いを感じさせる。