瑞巌山圓光寺 臨済宗南禅寺派
慶長6年(1601)、徳川家康は国内教学の発展を図るため、伏見に圓光寺を建立し学校とした。その後、圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667)現在地に移転した。
山門を入ると枯山水「奔龍庭」が眼前に広がり、さらに中門を抜けると苔と紅葉、敷紅葉の美しい「十牛(じゅぎゅう)之庭」がある。
また裏山には徳川家康の歯を埋葬した東照宮があり、洛北が一望できる。
詩仙堂丈山寺 曹洞宗永平寺派
石川丈山(1583~1672)
33歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、その後徳川家を離れ、浪人する。この間のいきさつについては諸説あるが、私には分からない。
平成13年に完成した圓光寺枯山水「奔龍庭」。
あえて未完成のままにしてあるとのこと??
圓光寺本堂からの眺めがお薦めらしい。
青紅葉の残る庭園だ。
圓光寺栖龍池(せいりゅうち)。
一人たたずむ女性は何を思う。
圓光寺栖龍池に映る紅葉。
青紅葉もまた美しい。
圓光寺の裏山に登り、洛北の景色を一望する。
左手の紅葉が圓光寺境内。
詩仙堂山門。
瀟洒な造りで、これぞ京都のイメージ。
禅寺なので、白砂の庭の先に紅葉が色づいている。今年の紅葉は、昨年ほどではないが。
最近は手水鉢も気になる。
詩仙堂の手水鉢は良いと言うと年寄だろうか?
庭から建物を眺める。
趣のある建物だ。
手前の柿の木を撮ったつもりだが、撮影技術がないとこうなる。でもいい。
詩仙堂を後にして、一乗寺駅へ。
この延べ段も良くできている。
寛永18年(1641)、59歳で詩仙堂を造営し、没するまでの30余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。(詩仙堂リーフレットより)
水戸家とも若干の因縁がある。
慶長12年(1607)12月22日に駿府城が火災に包まれた時、家康の十一男の頼房(後の水戸藩主)は、当時5歳であり、頼房を抱いた乳母が火災の中にあって泣き悲しんでいた。これを見た石川丈山は衣に水をかけ、火を避けつつ二人を救い出した。
このことが縁で、後年水戸家は丈山を召し抱えようとしたが、丈山は辞退したと言う。丈山の没後150年忌に、水戸斉修(斉昭の兄)が送った詞の前文に「予かつて丈山年譜を閲覧するに、駿府の火災の時、丈山先祖威公(頼房)一時の厄を脱するを載す云々(原文は漢文)」とあるので、この話は公に知られていたと思われる。
現在は美しい庭が有名で、観光客も多い。曼殊院・圓光寺・詩仙堂と併せて観光するルートが知られている。
琳派400年記念祭に合わせて、現代琳派のアート作品というところか。
柱が邪魔ではなく、額縁の役割。
切り取られた絵画のようだ。
苔と紅葉とお地蔵さん。
小さなお地蔵さんは大人気。
お地蔵さんの正面。
頭に載せた紅葉は誰の仕業だろう。
圓光寺中門前の鮮やかな紅葉。
曇り空のせいか、発色がいまひとつ。
詩仙堂本堂に向かう延べ段。
突き当り左に本堂がある。
天気予報は晴れだったのだが、終日曇りで、発色はいまいちだった。残念。
可愛い手水鉢と言っても、大きさの比較ができないので説得力なし。でもこれは気に入った。
曇り空に向かって伸びる紅葉。
曇り空が恨めしい?
苔むした燈籠。
湿気が多いので自然に苔が生えるらしい。
宮本武蔵の「一乗寺下り松」。
一乗寺駅への途中にあるので、おまけの一枚。