伏見通信  伏見から江戸を見る

伏見城

 

伏見は東山から連なる丘陵の最南端にあり、南に巨椋池が広がり水運により大阪と京都を結ぶ要衝の地であった。

伏見は昔「伏水」と書き、豊富な湧水を利用した造り酒屋が多く、今でも日本を代表する造り酒屋が軒を連ねている。

 

伏見が発展する契機になったのは1592年に遡る。

豊臣秀吉が文禄元年(1592)、宇治川に臨む「指月(しげつ)の岡」に別荘を造営し、その翌年、嫡子秀頼が誕生したことから、ここが本格的な築城に改められ、天守閣などの城郭施設が整えられた。

 

伏見城は3度築城されており、最初の城は指月伏見城と呼ばれる。しかし、指月伏見城は慶長元年(1596)閏7月の大地震により倒壊、近隣の木幡山(こはたやま)に場所が移され、新たに築城された。二番目の城は木幡山伏見城と呼ばれる。 

 

指月城のあった「指月の岡」は現在、観月橋団地と近畿財務局桃山東合同宿舎があるあたりと思われる。見えている山並みは鴨長明の隠棲した日野山だろう。


  

 翌慶長2年(1597)5月に天守閣や殿舎が完成、秀吉・秀頼らが入城した。翌年8月18日、豊臣秀吉がこの城で亡くなると、秀頼は大阪城に移り、代わって徳川家康が木幡山伏見城の主となった。関ヶ原の戦いでは西軍に攻められて落城し、建物の大半が焼失した。

 

3度目の築城は慶長7年(1602)で、徳川家康によって再建された。その翌年、家康は伏見城で征夷大将軍に就任した。以降秀忠、家光も伏見城で将軍宣下を受けている。1619年廃城とされるが、1623年家光がここで天皇の勅使を招いて将軍宣下を受けているところを見ると、廃城は1623年とするのが適当であろう。

この時建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代までに桃の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになった。現代に至り伏見城は「桃山城」あるいは「伏見桃山城」と呼ばれる。

  

宇治川、宇治川派流、濠川に挟まれた中書島(ちゅうしょじま)界隈は今でも昔の面影が残っていて、観光客が多い。写真は十石舟遊覧の様子。