調査対象地は、桃山丘陵の南辺崖面に近い「指月の地」とも称される丘陵上に位置している。この桃山丘陵は古代以来天皇家や藤原家の別荘地となっており、指月の地は平等院を建立した藤原頼通の子、橘俊綱が平安時代後期に建てた「伏見山荘」の推定地である。
庭園ガイドの皆さんには、橘俊綱「作庭記」の作者とされる人と言ったほうが分かり易いかもしれない。
天正20年(1592)天下人となった豊臣秀吉は、最初「隠居屋敷」として指月の地に別荘建築を開始する。
文禄2年(1593)秀頼が生まれると、「隠居屋敷」は壮大な城郭に作り変えられ、指月城と呼ばれるようになった。淀城の天守や矢倉を移築した大規模なものだったようだが、文禄5年(1596)閏7月の伏見大地震により、城下町もろともに倒壊した。翌年、指月城の北東約1キロメートルの場所に築城されたのが「木幡山伏見城」である。
指月城は「絵図」が残されていないため、その様相を伺える確実な史料に乏しく、その存在を疑う論文まで発表されてきた。今回、石垣と堀の遺構が発見されたことにより、ほぼ確実に「指月城」はあったと言ってよいだろう。
調査説明会には主催者側の予測をはるかに上回る見学者が押し掛け、当初印刷していた資料(A3一枚 カラー裏表)1500部では間に合わなくなり、急遽1000部を増刷したという。
見学会開始の約20分前に並んだが、500人を超える人がすでに並んでいた。資料を頂くとき、1200番目くらいと言われた。
ご丁寧に「花崗岩」「堆積岩」の違いが分かるように表示がされていた。大きさは1メートル弱か?
石垣の説明用に表示があったが、人が多すぎて「犬走」等の用語の説明がなかった。
展示コーナーもあったが、たくさん行列している状況で、「触らないで」「立ち止まらないで」とそればかりだった。
石垣は一辺1メートルを超える花崗岩や堆積岩を主石材として、南北約36メートルを検出している。下段の1~2段(高さ1メートル程度)がほぼ残存していたが、本来は3段以上に組み上げられていたと推測する。石材の種類、大きさ、組み方、仕上がりの様相は、洛中の聚楽第跡の石垣と共通しており、また秀吉の大坂城本丸跡の石垣とも類似している。
西側に並走する堀は東西幅が北部で5メートル、南部で7メートルほどあり、深さは現状でも2メートル以上ある。ただし、堀の底面は金箔瓦等を含む埋土であり、本来的には3メートル、あるいは4メートルを超える深いものであったと推定される。
出土品の中には金箔瓦が多く含まれ、菊文や五七の桐文を含んだ金箔瓦が出土しているところから、天下人を象徴する屋根瓦類であったと理解される。
このような出土遺物と検出した遺構と年代観などを根拠として、今回発見した金箔瓦や石垣・堀は指月城と直接関連する遺物、遺構であると判断する。
さらに今回発見された石垣・堀は、指月城本丸の主要施設が存在したであろう中心的エリアの西辺段に沿って設置された石垣と堀であったと位置づけられる。
発掘現場の入り口近くに大きな地図があったので写真に収めた。指月城と木幡山城の位置関係がはっきりする。
グループごとに話を聞くことになっていたようだが、人数が多くて自分がどこのグループか分からなかった。
小森俊寛氏が熱心に説明してくれた。巻きが入ったようで「もっと話したいのですが」と申し訳なさそうだった。
金箔唐草の保存状態が良く、目を引いた。もう少し見ていたかったが、この混雑ではやむをえない。
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