唐崎の一ツ松


舒明天皇5年(633)頃、日吉大社神職家の始祖、琴御館(ことのみたち)宇志丸(うしまる)が居住し、「唐崎」と名付けて松を植えたと伝わる。

天智天皇7年(668)、西本宮の大己貴神(おおなむちのかみ)が奈良県大神神社より勧請された砌、湖上の漁船から田中常世(つねよ)という者が神命を受けて唐崎の松の下にお送り申し上げ、粟飯を供した。これが日吉大社山王祭で行われる唐崎沖での「粟津のお供」神事の起源と言われる。

持統天皇11年(697)に宇志丸の妻君をご祭神として神社が創建された。それが唐崎神社である。

 

後楽園の大泉水は琵琶湖に見立てられ、西岸に松を植えて「唐崎の一ツ松」と称した。江戸を立って木曽路を通り、摺針峠にて琵琶湖を一望した時の家光・頼房の感激が「唐崎の一ツ松」を後楽園の主木に据えることになる。

 

摺針峠についても面白い逸話が残っている。

その昔、諸国を修業して歩いていた青年僧が、挫折しそうになってこの峠を通りかかったとき、斧で石を摺っている老婆に出会った。聞くと一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針にするという。その時、青年僧は気付いた。「この老婆の苦労に比べたら自分の修業はまだまだ甘かった」と、己の未熟を恥じ、心を入れ替えて修業に励んだそうだ。この青年僧こそ、後の弘法大師である。

  


  

 

 

 初代の一ツ松は天正元年(1573)の大風によって倒れ、2代目は大津城主新庄駿河守直頼が天正19年(1591)に植えたとされる。

さざ波寄せる白砂の浜辺に、常緑の松の枝が臥龍のように伸びる姿は近江八景「唐崎の夜雨」に選定された。歌川広重の浮世絵にても知られ、雨中朧にかすむ姿は芭蕉の俳句とともに親しまれてきた。

 

 唐崎の松は花より朧にて(芭蕉)

 

 時代的には当然芭蕉が先で、どうやら広重先生は芭蕉俳句のイメージに合わせて「唐崎夜雨図」を描いたようだ。と言うのも広重先生唐崎に行ったことがないという説が有力だ。

 

有名な唐崎の一ツ松だが、大正10年(1921)に枯倒し、現在の松は3代目とのこと。後楽園の一ツ松は赤松だが、現地にて触ってみたら本家は黒松だった。なぜ後楽園の一ツ松を黒松にしなかったのかは分からない。分からないことがまた一ツ増えた。 

唐崎神社


 

 

 <追記 1>

小倉遊亀「摺針峠」

 滋賀県立近代美術館に小倉遊亀の「摺針峠」があると聞いて930日に電話してみた。残念ながら常設展示をしていないとのこと。美術館に行くのを先に延ばすことにした。

 

慈悲の心で青年僧を導こうとする老婆(実は観音の化身?)の眼と、迷いに苦しむ青年僧の眼の表情が良いとの評判なのでぜひ本物を見たいと思っている。 

 

<追記 2>

後楽園ガイドの佐藤千草さんからメールをいただきました。本物の摺針峠の写真です。

 

2013年9月

摺針峠から見た琵琶湖です。

早朝のため琵琶湖に霞がかかり写真ではぼんやりとしか見えませんが...

現地では電柱などが視界に入ることを除けば良い景色でした。