日本国王の庭

 

鹿苑寺の鏡湖池(きょうこち)には大小10の中島と15を超える岩島がある。池の中央に位置する最大の中島が「蓬莱島(ほうらいじま)」であることは一般にもよく知られているが、ここ鏡湖池では「原島(あしはらじま)」とも呼ばれている。

「蓬莱」は中国道教の思想で「方丈(ほうじょう)」「瀛州(えいしゅう)」とともに東方の三神山のひとつであり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。

そんな「蓬莱島」を「葦原島」と名付けたことは、足利三代将軍義満に特別な思いがあってのことだと思う。

「葦原」は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」すなわち「日本=本州」であり、「方丈」は正方形を示すから「しかく=しこく」四国であり、「瀛州」は九州を指すことは容易に想像できるであろう。

 

義満は「蓬莱島」をあえて「葦原島」と呼ぶことで、日本の未来永劫にわたっての繁栄を願い、その「蓬莱」の支配者である「日本国王」義満を強くアピールした。時代は明国との勘合貿易を迎えており、明国皇帝の使者と対等に渡り合うために、日本国王として、どうしてもこの庭園と舎利殿(金閣)を必要としたのである。

 

(注)「蓬莱」を「日本」と見るのは将軍義満の「見立て」だ。「蓬莱」は伝説の島であり、浦島太郎の「竜宮城」同様、本来特定される性質のものではない。

 

金閣から見た「葦原島」にはその中央に重厚な「三尊石組み」が据えられている。金閣からの眺望が最高なのだが、残念ながら一般観光客の金閣への立ち入りは許されていない。

建物と庭園は本来、「見る」「見られる」の関係にあり、金閣から庭園を「見る」ことができない以上、金閣は庭園から「見られる」存在としてしか認知されない。鹿苑寺と言えば「金閣」であり、特別史跡・特別名勝の「庭園」は本来の意味での最高の眺望を放棄させられている。鹿苑寺に「庭園」を見に行く人が少ないのはやむを得ない事だろう。

 

金閣は三層の建物だ。一般には禅寺の建物は二層構造だが、金閣だけはなぜか三層である。義満の思想と深く関係しているのだろうか?

一層は「法水院(ほうすいいん)」と呼ばれ、寝殿造りである。それは天皇や上皇のお住まいになる御所の建物を模したものと言える。金閣第一層からの眺めは目前に迫る葦原島が四季を通じて様々な色に変化する。そして何といっても重厚な「三尊石組み」が迫ってくる。

二層は「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれ、武家造りであり、そこに岩屋観音が四天王に囲まれて座している。金閣第二層からの眺めは、第一層で重なり合っていた島々がばらけ、見下ろすことで、美しい島の全景を明らかにする。

三層は「究竟頂(くっきょうちょう)」と言われ、仏舎利を中央に安置している。そこにはかつて阿弥陀三尊が二十五菩薩とともに祀られていた。しかし、文明17年(1485)、足利八代将軍義政が訪ねた時には、すでにこの阿弥陀仏も二十五菩薩もなく、がらんとしていたという。がらんとした「空」の空間のほうが禅宗思想のより明らかな表現となろう。三層からは壮大で華麗な王の庭が一望できる。


力強い三尊石組み。葦原島の中心と言える。

 

 

大湖石で出来た九山八海。奥に見えているのは「鶴島」



左が「鶴島」で右が「亀島」。後楽園にもかつて「鶴島」があったとかなかったとか……


金閣の屋根の頂に南を向いて立つ鳳凰。昭和62年(1987)作製。撮影の時だけ晴れてくれた。



義満の盆栽から移植されたと伝わる「陸舟の松」。西方浄土に向かう帆掛け船の形に仕立てられている。京都三松の一つに数えられる。 

安民沢(あんみんたく)へ続く小さな石段で「虎渓橋(こけいきょう)」と呼ばれる。その両側に有名な「金閣寺垣」がある。


夕佳亭(せっかてい)。江戸時代「後水尾法皇」を迎えるために建てられた。今のものは明治7年(1874)に再建され、平成9年(1997)に修理が行われた。

 

 

 

足利義満と徳川家光の生年と没年について触れておく。大体250年の差がある。

 足利義満 正平13年(1358)生まれ 応永15年(1408)没

 徳川家光 慶長9年(1604)生まれ 慶安4年(1651)没

 

日本国王と日本国大君(たいくん)

 

応永9年(140295日、義満は北山第で明の使者に対面し、建文帝の詔書を拝領した。詔書では義満を「日本国王」と呼びかけ、遣使の労を称え、大統暦を頒布するとともに、日本が当時の首都応天府(南京)からは最も近い外国であることを謳い、倭寇禁圧と恭順とを期待している。明朝は義満の反応を見定めてから冊封(さくほう)する方針であった。

冊封とは、中国皇帝が周辺諸国の君長と宗主国・藩属国の関係を結んでこれを臣下とする手続きのことである。

2年後永楽帝により正式に冊封された。

三代将軍義満の行動はしばしば「屈辱外交」「皇位簒奪(さんだつ)」という悪評とともに語られることが多い。明との通交は義満の代表的悪事に数えられたが、昨今日本人が伝統的に不得手とする「外交」を成功させたとして、「国際感覚」を称賛する評価が目立つ。「皇位簒奪」については憚りが多いのでここでは触れない。

 

「日本国大君」は江戸時代に対外的に用いられた。

「将軍」は字義的には単なる軍事司令官の称号に過ぎないことは、江戸幕府としても十分承知していた。そのため外交において、日本を代表する存在として認められる称号を用いる必要があった。

江戸の初期は対馬の宗氏を仲介に「日本国王」と偽造された称号が使われていたが、寛永10年(1633)に事態が発覚する(柳川一件)。この事件のあらましは省略するが、寛永13年(1636)から「日本国大君」が正式に使用されるようになった。徳川三代将軍家光の時代からである。

途中6代将軍家宣の時、新井白石の「原理主義」に押され一時的に「日本国王」に変更されるが、8代将軍吉宗により再び「日本国大君」に戻され、明治元年(1868)天皇が外交権を接収するまで続いた。明治以降は「大君(おおきみ)」が天皇の非公式な尊称として使われた。

 

蛇足ながら、将軍を表す「大君」は実力者や大物を意味する英語tycoonの語源である。

またまた蛇足ながら、昭和61年(1986)中曽根康弘首相あてのスワジランド国王の即位式への招待状の名義が「日本国王ナカソネ」となっていて、当時話題になった。

  

<参考資料>

「日本の10大庭園」      重森千靑(祥伝社新書)

「日本の庭園」       進士五十八(中公新書)

「足利義満」          小川剛生(中公新書)

「古寺巡礼京都21 金閣寺」 梅原猛  他(淡交社)

 

 

 

 

 

 

葦原島「三尊石組み」の左手に斜めに立てられたのが「細川石」である。

 

池の北西部の「畠山石」。左手に「出島」、奥に「淡路島」が見える。

 

中央が「出亀島」で右手奥が「入亀島」。左手に張り出しているのが寝殿造りの「釣殿(つりどの)」。


金閣の東側から直線状に並ぶ4つの石は「夜泊石」と呼ばれる。港に停泊する船と言われるが、蓬莱島に向けて出港する船と見立てれば、動的な石の「気勢」となる。


龍門の滝。鯉がのぼりきると龍になるという中国の故事「登龍門」にちなんだ「鯉魚石」がやや斜めに置かれている。

 

雨に濡れて美しい階段の踏石。撮影の時だけ不思議に太陽の日がある。

  

8代将軍足利義政が愛用したと伝わる「富士山型手水鉢」。錆びた部分が富士の白雪を想像させる。