後楽園の「馬場桜」。2013年3月19日撮影。


 後楽園

 

元和9年(1623)弱冠20歳の徳川家光は将軍宣下を受けるべく松平頼房とともに伏見城に入った。この年、家光は初めて清水寺を訪れることになる。

 

小石川後楽園(以下「後楽園」)は家光が元和9年(1623)と寛永3年(1626)の二度の上洛を果たした後、寛永6年(1629)に作庭が始まったとされている。初めて上洛を果たした元和9年に清水寺を訪れ、深い感銘を受けたことが作庭の動機になったであろうことは容易に想像できる。後楽園の作庭初期の構想は京都(特に清水寺)を再現することにあった。

 

後楽園の最も高い場所(海抜18メートル)に清水観音堂(以下「清水寺」)が建てられ、園路は江戸をスタート地点として、清水寺をゴールとするように巧みに整備された。

現在のように渡月橋を渡って清水寺にアプローチするのではなく、(そもそも作庭時には渡月橋はなかった)「コケイノツツミ」を渡り、少しずつ大きくなっていく清水寺を前方に見据えながら進むとやがて堤は直角に右に折れ川の左岸に出る。左岸を遡上すると東福寺の通天橋に似た反橋が架かり、再度反橋を渡って右岸に出て、深山幽谷の山に分け入り清水寺に到着するように設計されている。

 

京都に話を戻す。伏見城から清水寺を目指して北上すると、途中に伏見稲荷、続いて東福寺があり、その大分先に清水寺がある。元和9年家光最初の上洛の際、伏見城を出て清水寺を目指して歩いた最初の思い出が後楽園作庭のきっかけになったと思われる。史料による裏付けはないが、ほぼ間違いないと思う。

元和9年家光の将軍宣下後伏見城は破却され、寛永3年二度目の上洛となった家光は、二条城に入った。二条城から南東に清水寺があり、清水寺を訪問する際に東福寺を経由する公算は極めて低い。

 

 1636年頃に完成したと言われる「江戸図屏風」には小石川の水戸様御屋敷と後楽園と思われる庭園が描かれている。反橋というよりは太鼓橋に近い橋の先にとうとうと流れ落ちる滝が描かれている。橋は東福寺の通天橋で滝は清水寺の音羽の滝であろう。

 日常と非日常、俗と聖をつなぐものとして、昔の橋(特に反橋)は重要な役割を持っていた。清水寺という聖域に入る前に反橋があり、当時の人々は緊張の面持ちでこの橋を渡って「深山幽谷」の神仏の領域に入っていったのだろう。

 

  

 

江戸図屏風拡大図。水戸様御屋敷(後楽園)が描かれ、東福寺の通天橋らしき反橋が見える。奥の滝は清水寺の音羽の滝であろう。

「水戸中納言下屋敷」と読めるのは、下賜された時、駒込に中屋敷が既にあったからだろう。建物が建って中屋敷となり、さらに明暦の大火後に上屋敷になった。

 



家光の功績に老中制度の確立が上げられる。実は家光が思うがままに政権運営をした期間は短い。二代将軍徳川秀忠の死後1632年から1636年までのことだ。

大名の領国を決める知行権は存命中の大御所秀忠にあり、全国統治は秀忠で江戸の統治が家光と考えれば分かり易いと思われる。

秀忠の死後、家光は政権の安定継続のために次々と布石を打って行った。その一つが老中松平伊豆守を中心とした集団指導体制であった。

 

寛永13年(1636)江戸幕府は長期政権確立の基盤を築く。幕府転覆の最有力候補であった伊達政宗が死去し、経済的には寛永通宝の幕府直轄鋳造が始まり、「銭金」の近代国家の礎が築かれる。外交的には長崎に出島が作られ、幕府による貿易の一元管理が図られる。ちなみに長崎出島=鎖国という捉え方は古い。日本は江戸期を通じて一度も鎖国(外国に門戸を閉ざす)を行ったことはない。

 

桃山文化の集大成である「豪華絢爛」な日光東照宮が完成したのも1636で、東照大権現が江戸の町を未来永劫守っていくはずであった。そんな時代に水戸徳川家が誕生する。松平頼房が徳川姓をいただいたのもこの年だ。

 

翌年、1月から虫気(腹痛?腸閉塞?)に襲われ、家光は一時生死の境をさまよった。その年はほとんど政治にはタッチしていない様子で、島原の乱は松平伊豆守を中心とした集団指導体制で乗り切った。

 

寛永11年(1634)家光は三度目の上洛を果たす。これが最後の上洛になるとは家光本人も考えていなかっただろう。表向きは「紫衣事件」の後始末。30万の大軍を率いて京都に入ったと言われているが、そんな大軍を収容する宿舎や食事はどうしたのだろう。かなりの誇張が含まれていると思われる。

 

寛永6年(1629)京都の清水寺は火災によりほぼ全域が焼け落ちた。その同じ年に後楽園では作庭が始まり、江戸を立って清水寺に向かう園路が整備されていった。そこにつながりを見るのは私だけではない。2014年に刊行された町田行雄氏の「小石川後楽園庭園デザイン論」は傑出した後楽園の研究書であり、今後100年はこの本をベースに「後楽園」が語られることになるだろう。

 

京都の清水寺を再建したのは三代将軍家光であり、寛永10年に完成している。完成した清水寺を見るために翌年京都にやってきたと考えれば、こんな愉快な人物はいない。家光ならやりかねないと思わせる。


2015年1月2日撮影。後楽園の通天橋。音羽の滝は元禄大地震で壊れ、修復された石組が通天橋の右手に見えている。大地震の前、通天橋は音羽の滝の手前に架けられていたと思われる。