幕末

  

嘉永6年(185363日の黒船来航から、慶応3年(18671014日の「大政奉還」までを「幕末」とする説と、明治に改元する慶応4年(186898日までを「幕末」とする説がある。また、函館戦争が終結する明治2年(1869518日までを「幕末」とする考え方もある。

  

今から約150年前のことで、直接幕末を語る人はさすがに存命しないものの、各地に「弾痕」など、「幕末」の生々しい傷跡が今も残っている。「幕末」について触れることは極力避けてきたつもりだが、そろそろ避けて通れない時期に来ているようだ。

  「伏見」には「幕末」の生々しい傷跡が今も残っている。冒頭の写真「寺田屋」は坂本龍馬が京の定宿にしていたところとして有名だ。近くに「竜馬通り商店街」があり、「観光」の目玉にもなっている。

 「伏見奉行所跡」や「会津藩屯所跡」なども残っており、京町家には「弾痕」も残っている。また、新撰組「近藤勇」や越後長岡藩「河井継之助」の痕跡も少しは辿れそうだ。

  

黒船来航から約15年で江戸幕府が倒れ、薩長を中心とする明治政府が誕生したことは歴史的事実であるが、歴史は常に勝者の立場から書き換えられ、「歴史の真実」は見えにくい。

 例えば、「勤王」と「佐幕」という考え方がある。二つは相反する概念で、それはそれで構わない。しかし、「勤王」は「佐幕」より優れた思想であるかのような微妙な刷り込みが、この言葉自体に含まれる。

また、  「尊王攘夷」という言葉の変遷を辿ると「鬼畜米英」「反米愛国」「嫌韓嫌中」に繋がっているように見える。

  

河井継之助

 

 越後長岡藩の河井継之助といえば司馬遼太郎の「峠」の主人公だから、歴史好きの年配の方なら大概知っているだろう。

その継之助が京で公用人として活躍していた時代があったことは余り知られていないと思う。(公用人とは藩政に携わり、主に幕府関係の用務をつかさどる。)

 

文久3年(1863)河井継之助は、永井慶弥、安田多膳とともに上京し、前年上京していた三間市之進とともに、藩主に京都所司代辞任を働きかける。前年8月、会津藩が京都守護職に任じられ、同じ頃、越後長岡藩主牧野忠恭(ただゆき)が京都所司代に任じられていた。

継之助は当時こんなことを言っていたそうだ。

「このご時世に京都所司代などとは、硝煙蔵に火を抱いて飛び込むようなものだ…」

司馬遼太郎の「峠」では継之助の働きによって、すぐに守護職辞任がなったように書かれているが、実際は少し違う。

 

  


  

 

 

 継之助らはいろいろ頑張ったがうまくいかず、最後は見切りをつけて「公用人」を辞任する。その時に継之助の「辞任願」を代筆したのが永井慶弥という事になっているが、出典は不明。同時に永井慶弥、三間市之進等も職を辞したため、慌てた牧野忠恭が6月に京都守護職を辞して江戸に戻ることになる。家臣に見限られたら、藩主も「京都所司代なんかやってられない」という事だろう。

 

安田多膳について補足する。長岡市の郷土史家の論文を読むと、安田多膳については、間違って史料を解釈しているものが多々ある。

 

北越戊辰戦争で非業の死を遂げた山本帯刀の父親として史料に登場する安田多膳は、山本家の三男の山本鋼三郎で、安田家に養子として出されている。門閥家老の山本家では子供がいなかったため、山本家の血筋である安田多膳(=山本鋼三郎)の息子を養子として貰い受け、山本帯刀を名乗らせた。

北越戊辰戦争の小千谷「朝日山」で活躍する安田多膳は、山本帯刀の父親の安田多膳とは別人物だ(ここが分かりにくい)。安田家は山本家に養子を出したため、男の子がいなくなったので、波多家(秦家)から養子をもらって安田多膳を名乗らせている。安田家では当主が代々「多膳」を受け継いでいくので、史料を読み違える場合が多々ある。この安田多膳には息子が何人かいて、長男が安田潔(戊辰戦争時15歳で朝日山に出陣、負傷)で、四男(史料では三男になっている)が祖母「治」の父親になる保四郎(後に独立して鶴見家を創設)である。

山本帯刀の死により跡取りの途絶えた山本家は、後に高野家から養子を貰い、家を再興させている。高野家から山本家に養子に入った高野五十六が、後の連合艦隊司令長官「山本五十六」である。

 

話を河井継之助に戻す。

幕府の崩壊をかなり早い段階から予測していた継之助が、なぜ北越戊辰戦争に踏み切ったのか?数々の疑問が湧き上がる。

最終的には藩主への働きかけが失敗して、佐幕派としての選択肢しかなかったのだろうと思われるが、「公用人」を辞任したように「家老職」を辞任する手段もなかったわけではない。

 

江戸の「無血開城」を見ていた継之助は最終的には長岡城の「無血開城」を想定していたのかもしれないが、小千谷会談の交渉相手が西郷隆盛ではなく、24歳の岩村精一郎であったのは継之助の誤算だったと思う。しかし、仮に西郷隆盛が交渉相手であったとしても、江戸の「無血開城」から「上野戦争」を経て、政局は動いており、新政府内の武闘派が実権を握っている状況では、平和的な解決はすでに無理だったかもしれない。