萬福寺の提灯には「煎茶道」の文字が見える。


葵の御紋があるのは、万治元年(1658)隠元が将軍徳川家綱に謁見したことがきっかけで、黄檗山萬福寺が創建されたからだろう。


売茶翁


私は60歳になるまでこの人を知らなかった。子供のころから知っていたのは和菓子屋の「売茶翁」で、母に連れられて小学校の高学年から中学生にかけてよく食べに行った。淡雪のような氷に抹茶シロップをかけたいわゆる「抹茶かき氷」が好きで、夏休みによく行った。他には「みちのくせんべい」。普通の砂糖とはどこか違うほんのりとした甘さと、さくさくっとした触感が「せんべいちゃうやろ」とツッコミを入れたくなるほど、美味しかった。

当時「みちのくせんべい」は法事やお茶会に重宝していたようで、数量がかさむときは予約になるので、最初は祖父の一周忌に連れて行ってもらったのだと思う。母がこぼしていたのは「予約なのにわざわざ来なければならないのよね。電話でもあれば、二度手間にならないのに殿様商売だわ。来ればお茶を飲まなくてはならないし、物入りね」と言ってお抹茶をすすった。母は文句を言いながらもお抹茶を嬉しそうに飲んでいたが、私にはお抹茶は苦く好きになれなかった。

 

母が亡くなって久しぶりに仙台「売茶翁」を訪ねた。パンフレットには相変わらず電話番号が載っていない。ここまでくれば立派な「商売」だ。お店のお姉さんに「売茶翁って実在の人物だそうですね」と話しかけると、

「そのようですよ」との返答。

「どうしてお店の名前を売茶翁と付けたのですか?このあたりに住んでいたとか、訪ねてきたとかですか?」と聞くと、

「さあ、大昔のことですから。」と素っ気ない。


電話 なし (そっけない)

左側のカエルは

「手をついて言上顔の蛙かな」と読める。

しゃれているねえ。

 

 

平成20年、佐賀に「売茶翁佐賀地域協議会」なるものができた。農林水産省「農山漁村(ふるさと)地域力発掘支援モデル事業」の採択を受け、活動中だそうだ。ゆかりの家の保存活動はもちろんのこと、佐賀の地域力(茶文化、シュガーロードと言われる菓子文化、有田焼などの焼き物文化)を活かし、佐賀の活性化を進めていくという。私の「売茶翁」に関する知識は概ね、このサイトからいただいたものであることをお断りしておく。

 

私が住んでいるところは伏見区鍋島町。「豊公伏見城の図」によれば本丸の南西「徳川御上屋敷」の少し先に鍋島信濃守の屋敷(54番)が描かれている。鍋島信濃守とは鍋島勝茂のことで、後に肥前佐賀藩の初代藩主になる。偶然だが、仙台と佐賀が伏見区鍋島町で「売茶翁」を通じて一本に繋がった瞬間である。

鍋島勝茂は天正8年(1580)龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男として生まれた。

天正17年(158910歳で豊臣秀吉より豊臣姓を下賜された。

慶長2年(1597)慶長の役では父直茂と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは最初西軍に与し、伏見城攻め(伏見城の戦い)に参加した後、父直茂の急使により、東軍に寝返り、筑後柳川の立花宗茂、久留米の小早川秀包らを攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に黒田長政(官兵衛の長男)の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵が認められた。

慶長12年(1607)佐賀藩の初代藩主になる。

 

売茶翁に話を戻す。

延宝3年(1675)鍋島蓮池支藩の藩医、柴山杢之進常名の三男として生まれる。幼名は柴山菊泉。

貞享3年(168612歳にて肥前の龍津寺(りゅうしんじ)に出家、僧名月海。

元禄元年(1688)宇治の黄檗山萬福寺第4代住職独湛禅師に面会を許される。

元禄2年(1689)龍津寺に戻り学問・修業に励む。

元禄9年(1696)体調を崩し、江戸・京都を経て仙台の萬寿寺月耕禅師のもとで修行。→(やっと仙台に繋がった)

宝永4年(1707)長崎で煎茶の知識を吸収。

享保16年(1731)龍津寺を法弟大潮に譲り、志を果たすため上洛。

享保20年(1735)東山に通仙亭を構え、禅を説きながら売茶の業を始める。

寛保2年(1742)高遊外に改名。

宝暦13年(176389歳にて死去。


 

 

仙台では売茶翁と言えば和菓子屋で、人物としての売茶翁の史料は皆無と言っていいだろう。そこで出典はほぼ萬福寺経由になる。元禄10年(1697)冬、23歳の月海元昭は、現在の仙台市青葉区高松にある開元山萬壽禅寺の月耕道稔を訪ねた。月耕道稔(16281701)は黄檗山萬福寺2代目住持木庵性■の嗣法者の一人で、仙台藩4代藩主伊達綱村の帰依篤く、城内にて説法を行っていた人物だという。萬壽禅寺での修業は月耕道稔が死去する元禄14年(17011月まで続いたようだ。その後月海は仙台を離れ、さらに臨済宗のみならず曹洞宗の優れた師を求めて座禅修業に励んだ。全日本煎茶道連盟(萬福寺内)発行の「売茶翁偈語 訳注」によれば、売茶翁83歳の時、仙台での思い出をもとに次のような偈を作っている。

 

(注)萬福寺2代目住持の■は下図を参照。

 

 

今茲丁丑(こんじていちゅう)元旦、忽(たちま)ち憶(おも)う60年前、余年二十三、上元の日をもって、武江を発して仙台に赴き、途中雪に阻(とど)められしことを。因って此の偈を作る。

 

東行(とうこう) 昔日(せきじつ) 丁丑に値う

老いたり 八旬 三を添え得

唯だ此の寿量(じゅりょう) 今古(きんこ)を絶す

一条の椰(しつ)りつ 是れ同参

 

<注>偈(「げ」と詠む。禅僧などが悟境を韻文の体裁で述べたもの)八旬(80年)寿量(寿命)今古(時間)椰りつ(杖)同参(ともに修行するもの)

 

仙台「売茶翁」の創業者(初代)は売茶翁に心酔していて座禅の修業も経験し、朝に無料でお茶を振舞っていたこともあったそうだ。創業は古く明治らしい。以前は旧東北電力ビルの裏手に店を構えていて、名前は忘れたが「ナントカ堂」と言った。私の母は三味線の師匠をしていて、電力の裏手によく行く三味線屋があった。そのすぐ近所に前の「売茶翁」があったと教えてくれた。

「ナントカ堂」は昭和22年(1947)現在地に移転して「売茶翁」と屋号を改めたので、創業は昭和22年ということになる。(売茶翁の項  続く)。